骨力と筋力
骨力と筋力
力
骨力と筋力
手仕事では、道具を用いて技を用いるには筋骨の力が必要です。弓の力が30㎏であれば、人の力も30㎏で対応しているのは力学的事実と誰もが理解しますが、弓を引くのに力を感じない、筋肉を使わないとの先哲の記述に触れれば何故と問わずにはいられません。しかし”火事場では老婆も箪笥を担ぐ”と、ヒトの能力には計れないモノ、無限の可能性がある事を感じさせます。
オイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」(訳:稲富、上田 福村出版発行)
「…。このことを証明しようとするかのように、彼(阿波見鳳師)は彼の強い弓を引き絞り、私(オイゲン・ヘリゲル)に彼の後ろへ行って彼の腕の筋肉にさわって見るようにいいつけた。その筋肉は実際、何等なすべきことがないかのよう全く力が入っていなかった。」
梅路見鸞師著「無影心月射儀」
「…。また引分けより大三に到って左右に肉体の力を感ずれば、弓を決めつけ、左右の肩に圧迫を生じ、上下左右に心気通らず、破滅の射となる。」
見鸞・見鳳は本多利実師より戴いた号とうかがいました。
本多師の記述には肉体の力や筋肉の力の記述に会いませんでしたが以下の記述からやはり筋力は主力で無い事がうかがわれます。
本多利実師著「射法正規」
「…。適正法の骨法を得て若き時より射来れば老人に到りてもさまて変らず。力は衰と雖、弓力姿勢格別変化せず、老いたると雖さして変なく射らるる物なり。」
先哲三師はそろって筋力や肉体の力が主で射を行うのでは 無い事を示唆されていると学べます。竹林派弓術書や射学 正宗は力を明確にして、具体的に述べています。
教本にはオイゲン・ヘリゲル博士の言葉を載せて、力を用いない事をのべています。
400~500年前に射の理を説いた高穎師も竹林坊師も射は「骨力」でなすもの、「筋力」で射形を作らない事を明言しています。竹林坊如成師の後、紀州竹林派吉見順正師の「射法訓」について教本改訂版には”骨を射る”事は”弓箭の操作に捕われ無ずに筋骨で力行すること”との宇野師の記述を掲載しています。「射学正宗」や「竹林派弓術書」の示唆を踏まえれば「筋力に頼って射形を真似て当てるのは射法に適わない」と受け取れますでは、弓の反動力に抗する、射手の直動力は身体の何い因るのでしょうか。
力 骨力と筋力 以上
天地自然の道理:「骨力と彀法」射学正宗
筋力を主としては矢束は定まりません。何故でしょうか。その事を高穎師は「射学正宗」で具体的事例を以って詳しく述べています。 注:「コウ」について。弓道教本一巻には「ヤゴロ」と振り仮名が記載されています。
高穎著「武経射学正宗同指迷集譯解」昭和2年7月廣道館発行小澤著
弁惑門
原文 引弓潦草之 第一
「… 恃力 而コウ者 筋力用事 恃法 而コウ者 骨力用事 …」
訳文 第一 弓を引くこと潦草(ゾンザイ、いい加減)の惑い
「…力をたのみて彀する者は筋力事を用い 法を恃みて彀する者骨力事を用る…」
解釈
「…力をたのみ 彀する者は 筋の力を以てするなり 射方に因て彀する者は 骨の力にてするなり…」
意訳 射法八節の”形”を知っているが、八節が骨法の理論で出来ている内容を解き明かす努力をせずに、射形の意味を 知らずに当れば良いと、技の大本をいい加減にして稽古する事の過ち
第一
「…唯、射法の理、骨法を知らず、又は無視して 弓は筋肉の力で引くモノと思う人は矢束一杯を筋力を用いて為し、骨法の理を知って矢束一杯に引こうする人は 骨力 を以って射を行います。…」
尾州竹林派弓術書 本書第一巻 (財団法人生弓会蔵版)
一 序
「唯剛弱を論ぜず修学水鉄の如し喩えば水水を流す鉄刀縞を削る此の心を知って剛は剛弱は弱と己己の分分に骨力を宗にとして嗜量を趣く
唯剛弱を論ぜずとは・・・・・射形も此の如し弱き骨も水水を流し筋道叶えば自分の嗜量の弓力を強みきて矢わざも中も出来る也 なま金のはがねに成りたる如く大わざをする也此の心を知って己々が分だけだけに嗜量を重く生まれ得たる骨力を宗として稽古をせよとなり」
竹林坊如成師と注釈の記述には射法に適った「骨力」で為す射技は、弓の強さに在る射の真実「矢業」と的前射形の真「中」の二つが自得出来、相応の弓の弓力がより強くなると云われている理解できます。この三つの視点は竹林派弓術書の骨力に呼応する内容で実践のすべてにかかわると学べます。
尾州竹林派弓術書 本書第一巻 (財団法人生弓会蔵版)
一 骨相筋道の事
「骨法の直なるを直にそだて、曲がれる骨おば其の理に随いて然るべく筋道を正しくよろしき所に至るを云う也心は七道の五部の詰 又は 始中終の骨法射形伸びて縮まざるを骨相筋道と云う也 矢束も爰にて知る事 之あり 口伝…… 」
「直の状態」と「直に育てる」と「曲がれる骨をその理=直の状態と直に育てる」と「骨」が力を受け、骨に身体の力を弓に伝える役割があ
り、「状態」と「育てる」のは「筋力」となります。骨力は衰えず、それ故、扱える弓力は変わりません、もちろん限界はあるのでしょう、今80歳を迎え30㎏前後の弓は骨で受けているのでしょう。筋力は常に変わり、歳と共におとろえます。以下、骨力筋力を考察します
骨力と筋力
「骨力と筋力」について論理的に明解なのは射学正宗と竹林派弓術書です。勿論、骨力は教本にも出てきます。射をなす人はあまり「骨力」など使いません。弓術書にあらわれる「骨力」をどのように考えるのでしょうか。先ず、「骨力」を思索してみます。
私達が重力に逆らって立っているのは「骨と骨組」があるからです。自分の体重を支えている骨格は、骨と関節を貫通する力が地面に通じて骨格全体にいきわたっているので立っていられます。「関節とその前後の骨が連続して組合う構造」で地面からの反力と体重の力がかみ合って、力学的には圧縮力で、骨が受ける力を骨力と学べます。
筋肉は意志に直接結びついて、関節とその前後の骨の組み方を定める役割と云えます。それを維持するのは次に述べる筋や筋膜や皮膚等でしょう。
射では「重力と弓の力」二つの外力がある事は既に述べました。飛躍しますが、この二つの外力を最も知覚しやすい方法が的前15間の射法八節と理解できます。骨力が「骨と関節の中を力学的に直に通ずる最も合理的な状態」にあって、真っ直・真っ平な動態として縦軸と横軸のなす骨格構造と機構(離れのメカニズム)を「射の技の規矩」に定め、繰返し正確に矢が的に中る「法」を示したと学べます。
「直」とは、「直」であれば力を感じず、「直で無い」状態では弓力(反動力)と骨力(直動力)にズレが生じ「モーメントが発生」し、モーメントの応じて筋力が応じ、力を感じる、さらに痛みと也、骨格が崩れ射をさせない、と学べます。弓手手首の控え、右手首の手繰りを想えばすぐに理解できます。ではどうするか、竹林坊如成師と高穎師はベクトルなど知らなかったでしょう、しかし両師の具体的示唆は科学的合理性を含み具体的で、「直」の極限は「筆紙に尽くし難し」と謙虚に述べています。
射は弓以外、外力が加わりません。射の規矩は、射の始から終りまで、真っ直真っ平、関節は伸びて縮まない事、骨の内部に歪み(モーメント)が無い事、弓箭と射手の重心は一点で不動弓箭とと射手の力のベクトル総和は一点で不動 かつ、離れの瞬間で最大で、直後に最小と力学に専門外ですが愚考される所です。
一射は動態のバランスの上に矢が射離れます。それ故、射の始から終りまで射手の中の力の知覚は自己の内部の骨格の不正から筋肉に通じて、直ちに意識に登ります。しかしそれを自覚するか否か、技量の差・心の状態・心気が係る事が先哲の記述からわかります。この様に、単純にして明解に「知覚と自覚を促すわざ」はまさに唯一無二と愚推します。それ故、射は「正」と「雑」、「正」と「邪」に直接かかわり、そのかかわり方、指導にあり学び方にあり、ここのテーマの弓の強弱にもあらわれます・
ヒトの感性は科学技術を凌駕了しています。「筆紙に尽くし難し」と竹林派術書にあり、「 」と射学正宗にあります。梅路師が神永師の射の「失」を指摘する「武禅」の記述からもうかがえます。普段、耳にせず、意識もしませんが、先哲の書から射の力は何かあらため て問い、ここでは「骨力」を以上の様に意識します。
筋力は衰えるが骨力は衰えない事
骨法に拠る射は古希を過ぎても弓力があまり落ちない事を本多利実師は言われています。火事に在っ
ては老女も箪笥を担ぐと云われ、六分の弓を手にする
80歳の先生は、誰でも無限の可能性があります、と
稽古をされながら、度々云われました。
40代の頃、70代の先生が六分数厘の弓を射こなし
定年になっても弓力を落としてはいけません、気力
が萎えますと云われ、歳老いても巻き藁で30kg、射
場の一射は24,5kgの弓が引けることを目の当たりに
して、意識を変えました。