射:技の事
射:技の事
「射技」を学ぶ意識と伝承する責任
はじめに「弓を正しく扱う技」を身に着け「中り」は次の事
「弓を正しく扱う技」を身に着ける事を第一に心に留めて稽古し、「中り」は次の事で「弓を正しく扱える事」に従って「中」は付く事は常はじめに教えられます。「技」の意味=射法八節の道理「骨法」を理解して「技」を実践する事は伝承指導の基本姿勢と学べます。「中」は誰でもとらわれます「横着して当てる事に囚われる」要因が指導伝承の姿勢に在ることは本多師高穎師の指摘するところです。
「骨法」理解して基本の技が意識できれば一年から半年で20~23㎏程度の弓が引けるように成る事で、指導伝承は当然、是を射場にて実践して示す事と学べます。古希になっても六分の弓も射こなせねば「骨法」が身に付いているとは言えません。弓を手にして60年先哲の言葉が響きます
何故「中ル」のか、何故「外レるのか」その道理など知る努力せずに「10㎏台の弓で、唯弓を綺麗な姿で引いて当る様になれば正しい技と思うのは、射幸心的なまぐれ当たりの域」を出ません。本多利実師は「射法正規・中巻」に「弓を射ん事思い、命中を思う勿れ」と「射」を学ぶ者の意識を糺しています。
射形の形を真似て弓箭を操作して八節の姿を作る姿(射に似た形)
内面:筋骨で弓・弦を押し開く意志で動作し現れる射形
射法八節を意識する動作にはこの「二つの姿」が在る事を意識せねばなりません。「明治維新前、太平が大よそ2,3百年続き、自然と弓術は名と形だけが残って明治に伝わって来た」と本多師は記述しています。「恰好ばかり真似して、射法の道理を実践して伝えていない指導者の責任」と警鐘されている事を「はじめに」で取り上げました。
道理とは。弓が常に連続して縮もうとしているのは自然の理ですから、射手は「射の始から終り迄、途切れる事は勿論停滞することも無く、連続して弓弦を押し開き続ける事」が道理です。弓箭の姿形を「真似る動作=八節の姿に弓箭を合わせる動作」を意識するので、「弓・弦を連続して押し広げる意識が欠如」し、筋力を主に弓箭の形に囚われ、弱い弓しか扱えません。
「骨法の射技の正しい姿」
「射の姿」にはいろいろありますが、八節の射法に関係なく自分で「射」を工夫して楽しまれる方の姿・形を言っているのではありません。
八節の射法を知っていて弓箭を扱う姿には「八節の射法・型が出来た道理を学び実践する正しい姿」と「道理を究明することなく表面の形ばかりなぞる誤りの姿」の「二つの姿」がある事を、射の項の始めから繰り返し述べています。同じことを「技」の話をする前に念頭に置かねばなりません。「相手のいない射の動作」特有の「虚の姿」が常に現れる宿命といえます。
射の姿が絵にかいた八節の姿になったからと云って「骨法に適う射法八節」のわざが身に付いたとは言えません。射こなせる弓が常に弱くなり、より強い弓より強い弓へと技の進歩が自然に導いて行き「20数㎏程度の弓は誰でも射こなせ30㎏以上の強い弓も射こなす姿も八節の規矩と姿に適う姿勢が顕れる」ことが「正しい技」が身に付いたと云えます。当然「骨法」は「正確な中の再現性を可能にする技」ですから「中」は良くなります。
「射法射技の本は一つ」と明言して警鐘を鳴らしています本多師は「射法を伝える側・指導者の課題」と述べています。
形を身に着ける技の虚の姿
射法八節の表面の姿形を真似て、筋力を主に使い極めて弱い弓を用いて紙的を当てる意識は射の病と竹林坊如成師は射の病の第一に挙げています。
形を習い表現する技・藝の世界に生ずる「虚の姿」は絵画・書でも音楽でも演技でも他の武芸でも云われる事です。それ故、人の心を映しだす能楽が猿真似にならない様に世阿弥は中味を考えず、唯外見を真似る弱弱しい稽古を厳しく戒めている事が「風姿花伝」に見られます。射藝は武道、弓は道と云われる人にはそのようなふるまいを見ることも在ります。
射の場合は15間先の紙的を破る、アタレバ当たらないより良いとの安易な意識が、弱い弓で形をなぞり美しい姿が「塗り絵の様にして」安易に形に色付け出来るので、それで紙的をやぶればその誤りが覆い隠されてしまいます。その課題を問うても、当りも付き段も進み歳を取れば「骨法」が射法八節の基礎になる事を知っても、今までの意識を変えて「射法」の「法」とは何か「本に戻って学ぶ意識」は起こらないからでしょう。
射の始めから終わりまで、弓・弦を押し広げる力は連続しているか、力の方向は正しく弓弦に連続して当りつ続けているか等など「骨力」の働き面から骨格の動き意識して、つまり自身の内面の動作を見守る又は知覚する意識を明確にする必要があります。其の知覚には強い弓が必要です。射法八節の姿は「骨力を働かす事に意識おいて行射する事であらわれる」のであって、八節の姿になぞって弓箭を動かすのでありません。
①「射」は重力下に於て「弓の力」を用いて「矢・物体」を射る「身体活動」であるから、弓箭と身体の力学的関係が自然の合理性に則している事を理解して「射技」を行う事になります。
「弓を射ん事を思う」弓とは、「射法正規」に記述される六分五厘(27,8㎏普通の強さの弓)~六分(弱い弓22,3kg)で十数㎏ほどの弓ではありません。本多利実師と高穎師は「骨法は、弓を初めて半年から一年で20kg程の弓力を射こなす射技」と述べています。それから六分、六分五厘へと弓力を上げ「骨法に基ずく正しい射法八節」の技を修得すると教授しています。強い弓を射こなして、時所状況におうじて技量相応の弓力を用いる事と竹林坊如成師は示唆されていると学べます。
②「中る」と云事は「正確な再現性が在る」事で、「正確な再現性」を保証する射技を身に着けるには「骨法」の射法八節を理解した上で先ずは「縦横に伸び続ける射手に唯一の矢束一杯に至る射技」を修得する事と理解できます。其の始めは「素引き」の技になります。
尾州竹林派弓術書の「骨法」によれば、「的前の中りて矢早」は「弓の本地」で「射形の真」を現し、「繰矢、指し矢等の矢業」は「射の真実」とあります。「骨法の射」を身に着ける事は「中」と「矢業(六分数厘の弓を射こなせる技量)」の二つの稽古を必ず修練する事と述べています。
本多利実師によれば「骨法」は「射行中に中り外れの変化の理を予知する」事を可能すると述べられている事から、何故外れたか、何故、中ったかを自覚して行う射行といえます。「骨法の理解」無くしては「中り」は分りません、とまなべます。それ故
1)その最初は「弓」という道具を理解して、「射」を行う自分の身体活動を如何にすべきかという「射法八節」を学びます。
2)次にその射法を作っている「骨法」に基ずいて弓箭を扱います。
3)「骨法」は「骨力」の理解が必要です。「骨力」が自然の理に則して「バランスしているか否かの自覚」は弓力の差が教えます。その上で「正しい射技を身に着ける過程で正しい姿勢が顕れ、弓力が感じなくなり、又は弓力を感じる事で、中り外の変化のことわりが自覚できる骨法のことを学び理解する事」と学べます。
4)骨法の理解と技量の向上に随って弓力は上がります。当然「中り外れの変化のことわり」を知り為すべき次の稽古の課題と身に着ける射技は明瞭となります
5)素引きできる「弓力」を常に確かめ自己骨力と技量の向上に随って古希を過ぎても「射技」の向上に随って「弓力」は伸びると先哲が云われる事です。筋トレなどせずに普通に射の稽古を重ねれば、骨法を理解すれば、書に在る誰もが「射こなせる相応の弓とは六分から六分三厘程度と云われる事」は理解できます。
「骨法」は射手の身体力を最大限引き出し手にする「弓力」の可能性を拡大し、射手の身体力と技量に相応のする弓力の弓を自覚させ、矢飛と飛距離と貫通力など「矢業」の向上可能性を自覚させます。日本の弓箭の伝統の技の事実と射の理の両輪を学ぶ過程には自立と創造的な射行の喜びをいつの時代も誰にでも芽生えさせていただけると思います。