中心
中心
「力の中心」
会から離れの瞬間の「相」変化は射の最大の変化です。
大地に立つ射手が不動の中心から四方八方に伸びて矢を射放つ瞬間、過去身は微動だにしません。
力学的に射をベクトルで考えてきましたが、不動といは合成されたベクトルは一点に帰す事で、力のすべてはここから出ています。其の一点は射手の中に在る、という事です。
ベクトルは物理の概念ですから、射手が骨格を通ずる骨力を意識して動作をする事で射の姿として現れるる事で、竹林派弓術書は”その心もち”と云う表現が該当すると思います。
此の不動の中心も図式的に考えたり、中心を探したり、中心は此処と決めたするのでのでは無く、射手自身の内に在ると云う意識に心が赴いていることが良いと理解しました。
同じように「心もち」で動作を意識すれば
射形は考えずに、両上腕の肩根から上腕の方向に押す力を働かせ続ければ骨法は成立します。左右の腕の長さや肩の位置は骨が基準ですから、左右バランス能く動きます。そこにたまたま弓箭があると考えれば良いでしょう。矢は水平となって、矢束一杯になると意識するのが、先哲の云われる射に臨む姿勢でしょう。
本多利実師が云われるように素引きできる弓で矢を番えて射ることができれば規矩に適っている自覚を得る事と云えます。
素引きは足踏みに注意してとありますから、中心など云わずとも心持の中そだちます。ところが実践してみるとそうはいきません、胴造りは崩れ、弓は照り、矢は鳥打になりおよそ規矩に合いません。とたん、弓を垂直に筋肉で操作して矢を水平に修正します。弓を押し開く事を忘れ、弓箭を操作して射形をなぞる事をします。瞬時に「射の動作の本分」を忘すれ去ります。
先哲の示唆は射が骨法である事を知っていてもその理を常に学び習慣として身につけねば表面的な射形・所作とアタリハズレの結果の相対的な良し悪しに気持が向く癖が習慣となって無意識に「骨法」の道理から離れて行く心の在り方に警鐘を鳴らしています。
「骨法の射」を執るとらないにかかわらず「自然の理に即した骨法」、力学的には総てに「中心が在って」相互に作用して、筋道に適ったバランスを学ばずに「正しい射」を語る事は無いと思います。
教本や月間弓道誌からは”射の眼目は自然の理を動作に表現する事事も同様と学びました。弓箭の操作に捉われず「自然の法則即ち骨法従って動作する射」を紹介され たと思います。「骨法」とは何かを、先ずは意識すべきとおもいます。射形やアタリにこだわって、型・形を比較差別の道具、競争や名声に使うのでは全くあり得ません。