術から道へ:近代の実態と形骸
術から道へ:近代の実態と形骸
「道」については門外漢ですが、意識と無意識の動作に関心を向けると「技即道」・「道即技」は、正しい技の正しい筋道による修練乃至修行は”相対の世界観から無二の世界観の至る”可能性が示唆されていると思います。課題はその入口がどこで、入口には”個体が気体になるような一瞬の相変化を伴うに臨界点・臨界状況”が想像されます。飛躍を恐れず云えば、善導の禅の導者が云われるように、独学不成道を念頭におかねばならないのでしょう。
日本の風土に根ざす文化に育まれ、現代の科学的思考方法で「”かたかたちわざ”を意識に纏った認識行動」では全て、自他を分けて比較分析して行動する事から逃れにくくなります。それは、善し悪しなどの欲望の心を醸しだす根になります。日々、語りつくせない心の不安定感を知覚すれば、無限の可能性を持つ無意識の世界を心に想定して、その不安感を比較しては比較する程、心は不安定になりますこに、何々「道」と「道」を付し、「技」に人間育成を加味しても、相対的な科学主義的に埋没している意識には、本来分離できない技と心・道を比較差別の対象として眺め、着飾るだけと理解できます。着飾るだけでの行動とは、そう言う何かわからない意識・無意識の深い世界を現実に引き出すため、「道」を付け,神事など為したことも無く神と結び、技を戯曲化して神格化を唱え、野狐禅のごとく人の心を惑わします。
”本より「型」など無い”と云われる事
同じ型を用いても生れる「形」は同じとは限りません。寧ろ、ひとつとして”同じかたち”は無いのでしょう。”もとより「型」等は無い”とどの分野においても、型を知り、技を極めた偉人の言葉や事物に良く現れます。
再現行動の正確性は生命維持継続性の基本的な欲求でもあります。生命と非生命の境界を見れば、状況に応じた型・形の変化の様式、顕れる姿の多様性は自然の本質に思えます。その表面・形だけに囚われれば、生命の維持の基本欲求は、人の意識の中に上って”相対比較の因果律が意識を包み”心は欲望の意識に吸い込まれ、こころは欲求と欲望のハザマに揺れ動き、やがて疲れ、霧散して無関心となります。
伝統の型に拘わらず、私達の思考や動作に係る「型」を問えば、その型の生れた「人の活動の道理」や「自然の理」とかかわる必然性を自ら学び明らかにして本より自らの意識が調えた”かたかたちわざ”の境界を超えねば、社会生活の中での自ら本性と自立行動はなりません。顕れる姿の多様性は、その理の真偽を問われねばなりません。
”かたかたちわざ” 以上