射技の「言詮」の惑わし

流派によって言葉の意味が違う事

技の内容が同じで流派によって名称が違う事


「同じ言葉で表現される技」も流派によって「内容が異なる」言葉が沢山あります。ここに取り上げました「矢束一杯」の事は最も注意して学ぶべきと思います。辞書には次のように記述されています。

言詮」は「ことばで説明する事」

ことば」」は「ひとがものを言うときに使う、社会的にきめられた音の組み合わせ。文字による組み合わせも含む」

「武禅」の巻頭に載ります梅路見鸞師「顕正射道儀」の「十失」の一文を記載します。

「三に曰く。言詮に着すれば、すなわち理想に墜し、以て超境を観ることなし」

「骨法」「紅葉重ね」「美人草と比人双」


「矢束」は「弓を引く物理的長さ」ですから、各流派で使われた当然のことですが、其の意味は異なり、学ぶ者は迷います。そのポイントは「矢束一杯」「引く矢束」「引かぬ矢束」「ただ矢束」 などの「言詮」の違いです。

教科書など無く、口伝で伝われば意味が変わって往くのでしょう。「歌」にのせて伝える様子は弓術書によく見ます。「比喩」は沢山あります。その事を考えると、本多利実師が「矢束一杯」と一言にして使われたことは、竹林派弓術書「引かぬ矢束と真の矢束」、射学正宗の「彀と匀」に適合すると思います。このことは「要の技」にきします。以下は流派の違い、「射法射技の本は一つ」といわれる背景にある、流祖では無く、流名を継ぐ流派の指導者の思惑が浮き沈みする事を考えながら考察します。