練膽
心の練磨と七情の事
練膽
心の練磨と七情の事
技三・精神七と云われる射を学ぶ時、別々に分けて学ぶ事は出来ない事を三師は申していますが、初心から始まって徐々に精神が絡み合っていく中で意識することは「"胆力"を養う事」と示唆されています。「膽」とは何か三師の記述からまなびます。
本多師はここで七情の事を述べています。勝負の勝ち負けや、アタリハズレなど欲望に関係する七情などでなく、骨法正路を歩む日々の稽古に起こる七情の対応と心の練磨が、射の行動の総ての本なる膽力の心象に顕われると学べます。
高穎師「射学正宗中巻 弁惑門 第十二」射の一技は膽勇気魄の沛する所
本多師「射法正規 中巻」射術は練胆の修業専門の大事と云事
梅路師「無影心月射儀 行動一覧 十位の第二」初心の技習より錬胆に於いて度を養い、…
以上
「武経射学正宗同指迷集譯解」 昭和2年7月小澤著(廣道館発行)
弁惑門 涵養未だ純ならざるの惑 第十二 には 「射技と精神」の関わりが詳しく述べられてます。射は
”度量” ”膽勇” ”気局”
の三つ精神を養うと述べています。射によってこの精神を養わねば、徒に「骨法」を身に着けても射の役に立た無いと言い切り、当然ながら 「骨法」を知らないものは 元より「道」に無いと云う事です。
「武経射学正宗同指迷集譯解」 昭和2年7月小澤著(廣道館発行)
弁惑門 涵養未だ純ならざるの惑 第十二
涵養も養い仕込みで仕込まするゆえ涵養なり 前に云う丈夫心を以て踏切ってすれば それぞれ 済みたることなれども それ切りとばかり心得れば 時としてリキムことある物ゆえ 尚 外心なく 純に 心も 膽も 気も 養い立てねばならぬことを 此條に云えり
又平居射を習いて 偏に能く的に中れど 或は 曹を分かちて射を角(アラソ)う時に当りて 栄辱 共に覩えねば 未だ兢持を免れずして 其故 歩を失うことあり此れ又何ぞや 則ち 養うことの未だ純ならざるなり 夫れ射の一技は霊性に根す 其 挙止動蕩 張弛発縦の機 緘 実に 一身の精神心術の著るる所なり膽勇気魄の沛する所なり 貧富壽殀 此に于(オイ)てか膽(ミ)る 事業功名 此に于(オイ)てか卜(ボク)し 聡明智恵器 識度量 此に於いてか顕る 故に
弓を引くこと 迅き者は必ず躁(サワガ)し
弓を持すること固き者は慮”オモンバカル” 必ず沈む
未だコウせずして先ず發たん事を思う者は 殀の徴なり
己に”コウ”して熟視凝視する者は シン密の士なり
矢を發つこ剛毅なる者は果鋭にして明敏なり
雍容和平なる者は寛柔して雅素なり
發たんと欲して發たず 発に比んで節に中らざる者は 狐疑不断なるものなり
忽ち左 忽ち右 大小常なき者は 蒙昧にして 乖張なるものなり
變性百出して其端を知ることなき者は 浮滑の徒なり
偃蹇滞澁宜しく脱すべくして脱せざる者は 阨困の士なり
始め引くことは 則ち是にして 矢を發つ時 忽ち 乖張なる者は老いて貧し 蕩蕩として忌むことなし
疾く満たして速く出づる者は 少(ワカク)して顕る 弓を”コウ”こと急促にして 発つて 輒(スナワ)ち 節に中る者は 飽腹にして 餘りなし
未だ”コウ”せずして 急に發ち 巧に中りて 継がざる者は 始め饒(ユタカ)にして終に憊(ツカレ)る
又 弓を”コウ”すること穏なるに似て固からず矢発すること順利にして 味なき者あり 庸常 貧薄 疑いなし
又 満手皆病にして 自ら以て妙となし 而して 天下を視るに 一の 是なる法なしとする者あり 暗浅鄙陋 歯(ヨワイ)を没(ツク)すまで なす無きこと知るべし
夫れ 人品の斎しからざる 盡(尽)く然らずと雖も 而かも 其 大略 己に自ら見るべし 此れ射は徳を見るの具 と為す所以なり
古人 射を論ずるに 其 容貌 禮に比し 節 奏楽に比するを以ってす 禮や樂や有徳の者に非ざれば 為すこと 能わざるなり 而して 射 之と同条 共貫なり故に 射に 精 しからんと欲する者は 必ず 務めて 其徳を養うなり
其徳を養わんと欲すれば 惟だ 度に在り 度量弘くして 人 己の形 忘れ 勝負の心 泯(ビン)し 曹を分って 射を角(アラソ)う時 勝たば 固より欣然 敗も亦喜ぶべし 猶ほ東坡が奕の如きなり
又 何ぞ 過って 兢持を為して 其 度を失わんや
又 其膽を養うに在り 膽は勇の決なる膽 足らざる時は 則ち 神寒し 閑に居て 且餒う 局に当れば 必ず靡く膽 旺するの人は 果にして鋭、健にして能く久しく百折して移すこと能わず 奇険 惕すこと能わず 是れ 伯昏氏が射なり 曾(スナワ)ち何の利害を以て 心を動すに足らん
又 其気を養うにあり 気は持ち難き物なり 盈つる時は 則ち 驕り 餒える時は 則ち怯(オソ)る驕る者は 神 奮いて疎なり 怯るる者は 神 短くして懼れる 疎なる者は 矢 を發つこと 多く大にして当ることなし 懼るる者は 多く少にして偏に斜めなり 此れ善く気を養う者は 和平にして撓まざることを貴ぶなり 所謂 木鶏の養と云うは 此なり
夫れ 度量の弘きや 膽勇の壮なるや 気局の和平なるや 皆 射の托して 以って 其 巧妙を行う所なり 此 三の者を舍てて 徒に 法を言うとも 法 豈所用を為さんや彼の 射て 法をしらざる者は 固より道うに足らず 法を知りて根を三の者に 托せざるは 法 固より 霊ならざるなり 此れ 射の大惑なり弁ぜずんば あるべからずなり
以上
本多利実師
「射法正規・中巻」 中巻は十ケ条からなります。其の五つ目に「射術は練胆の修業専門の大事と云事」が記載されています。本多師は射形七道の正路を日々修学する初心者に次第に亡念が生まれるので、忘れてはならない事を十ケ条に纏められたと記しています。
本多利実師著「射法正規・中巻」射術は練胆の修業専門の大事と云事
「是弓は気合の物たる、諸人知る処なり。然りと雖其気合をのみ修行するという事難しき、是非とも弓を取て其気相を練磨する事は云に及ばずとは云いながら、其弓を取稽古するに次第あり。骨法正路に渉り修学するを以て、やがて気合うつりて気、象共に全備せざるべからざる事に知覚するなり。…」
本多師は「弓道保存教授及び演説主意」で良導の師に学ぶ時、
「弓を手にして一月で骨法を知り、二つき目に射形調い、三つき目に弓力が増す、射の味わい調子を得て六ヶ月めに真の中りを知る」ことを記述しています。 先ず、初心の方が知るべき「骨法」とはどの様な事かを考える事が必要です。ここには指導される方の「骨法の理解の程度」によって180度内容は変わると理解できます。
「射法八節の姿を見せて、その形を真似する事を始めたら骨法を知った」という状況から、「骨法」の道理を説明しその現れた形が「射法八節」の姿で、具体的には弓を押し開く動作の結果が射法八節の姿になるよう意識しなさい」と動作を始める状況まで様々ありますが、初心の方が抱く意識は大きく変わるとまなべます。それは本多師がこの「射術は練胆の修業専門の大事と云事」で掲載し記述の後に続く記述に明解です。全文を読むことをお願いします。
そこには、射法射技の道理を正しく理解して指導する事が明記されています。射に筋道:「骨法がある事」を確信して、心に一本の基軸が出来、その上に”味わいや調子など感性、精神面、心の状態”等に気がつく事で右往左往することはありませんと云う事でしょう。「射」の総てが明らかにされていると学びました。
「射法正規・中巻」「射術は練胆の修業専門の大事と云事」「本多流弓術書(財団法人 生弓会発行)より」を恣意を弄して述べれば、こころの練磨が大切です。心が安定するのは、姿勢骨法を理解してそのすべてを身につける努力を重ねる射の稽古を積むことと学べます。
つまり精神の安定は骨法の理を理解し、骨法正路の射を正しく行っている自信によって練磨されるといわれていると理解できました。正しく行っているとは、骨法という「骨力」を意識して実践すれば(素引きのように実践すれば)、ひと月ほどで八節の射形が現れて次第に調い(手の内を握ら云事が、全くに握らない意識も含めて)弓力も増し、(連続する一射の流れに沿った一射に生じる)自身の調子や味わいを感じ(六ケ月ほどしてある時押し開いているだけで)離れがでて中る事を経験することで、其経験が「骨法の射の法」を確信し、初心の人に「骨法」の道を進む事に自信と迷いが無く成ると理解し継続することが「練胆(膽)」を深めて行き。鳴弦蟇目など射の深淵に至ると浅学の身で愚考しました。
本多利実師は「射の道は芸道の中で精神の活用が最も極度ある故、五つの射法射技すべてを修得した人によって 為される蟇目・鳴弦があり、弓徳と精心の妙用が顕現されるモノは他にない」と述べています。竹林派弓術書にもこのことは記載されています。 本多師は「練胆とは精心を練ることで、その精心が動機するのは喜怒哀楽などの七情である」と述べています。七情は竹林弓術書にも、教本にもでています。この「動機」とは辞書にキッカケとありますので、喜怒哀楽が生じる事を勝負事だけに置けば誤りをおこします。アタリハズレの欲望に捉われ、場数を踏んで得た当たりを、精神を統一した正しい射と云い張ります。本多利実師は勝ち負けや当りと七情の関係は全く記していません、「正しい射を志す心身に生じる七情の事」をいかに克服して心を練磨するかを述べています。
先哲の書の原文を求めて、是非、全文を読んでいただける事をお勧めします。
以上
梅路見鸞師:顕正射道儀
梅路師「無影心月射儀 行動一覧 十位の第二 初心の技習より錬胆に 於いて度を養い、…」とあります。この行程の基となす理を「顕正射道儀」を紐解くべきでしょう。
現代の弓術書では池田正一郎先生著「四方山噺」に「顕正射道儀」が掲載され、先生のお話があります。武禅の各号の巻頭に掲示され、池田先生は不明があればお経の如く繰り返読めば自然気が付く事がありますとお話されていました。射の実践は勿論、日々の行動の中にも気ずかされる事があります。学ぶ身として触れて頂ければと思い以下に全文を記述します。
顕正射道儀
夫れ弓道は、直心開発、円通自在の大道妙用を顕現するの唯一無二の真実道なり。是の故に、神之を尊び、仏亦之を実如と名づけ、以て弓道一如、弓禅一味と説くなり。念々弓箭を忘れ、刹々射定中に入り、弓箭を失い、射身を没し、気息に関わらず、満を張りて、持せず、発せざれば、本有の心と雑妄と自ら不二と化し、上下四方、萃然として一隙なく、浄心清体の我一枚となり、彼来我到って、一切自然、明光として我と相融合し、念々の行々、無限の大に到り、無量の底に及び、十方大千に充満するに至って、還って我に帰す。乾坤一枚なり。何れにか彼我あらん。何れにか然らざらん。発、生じて天地を尽くし、なお悉くを中に存す。而も光風霽月玲瓏たるの我。此の間、一息の停続なく、出づるは発。入るは満。乃ち是れ射の大円成相なり。
射は是れ八識の根底を直通し、正響の融通を本とす。故に不問不思者をして、八識の明を與へ、識我の静を得さしめ、度を決して散逸を防ぎ、停息を通じ、迷処を断じ、気縛を解き、根気を通続し、智用を円にし、統我の一を得さしめ、以て本有 の性に到達し、各自本来の正行を覚らしむ。正行現前する処、初めて我が本有の賢愚を知る。賢は自知す、是れ覺ねん覚然無聖、聖我不二と。愚は自知す、是煩悩具足の凡夫と。乃ち是れ射の知性なり。這裏に到って、行動自ら二分するあり。賢は是れ自力識射の本来空の悟道なり。愚は是れ他力托射の有無相通 の安心なり。此の二行をして常往ならしむるあれば、則ち富貴も淫する能わず、威武も屈する能わず、恩愛も乱すこと能わず。大丈夫の気魂、自ら露現し、理情明白、上は真忠を覚り、下は恩愛の情見を破し、而して本有の天命に遵い、易々として不惜身命の実をあげ、八面敵中、着々出身の活路を開き、人事万般をして相差うある無からしむるを得ん。師家、宜しく如上の実を修し、而して範を垂れ、義を示し、大用現前、規則なきを現じ、毫末も相差う所なく、自家履践処を以て直ち道となし、將て学人をして射悟の妙慧を修せしめずんば、いずくんぞ能く至道を弁ぜん。
若し其れ射悟の事を得んと欲すれば、須らく射の十失を断是ぜざるべからず。十失とは、一に曰く遅速にかかわれば則ち身力を恃み、以て当然の機を失す。是れ弓箭に奪わるるなり。二に曰く、模索に着すれば、則ち雑妄、本心を滅し、我見に撞着す。三に曰く、言詮に着すれば則ち理想に堕し、以て超境を観ることなし。四に曰く、弓箭にかかわるは則ち技の端。五に曰く、結果を庶うは時に偏執を免れず。六に曰く、巧拙に拘われば、則ち可否に縛せらる。七に曰く、他との比を看るは、真実の修業に非ず。八に曰く、内省を事とすれば、則ち未だ主観の殻を脱せざる者悉く雑妄の縛うけ、然らざるも亦模索に着して後箭を期し成ずる能わず。九に曰く独学を以て享楽となすは向上の死滅なり。十に曰く、気分を娯むは病者のみ。 この十者は以て射悟正修の便とならず。宜しく急に断滅して射の初一念を継続すべし。十失想起の時、宜しくその去来に任せてかかわらず、本有真如の月を仰ぎ、絶命一射に自性を照顕し、以て射裏見性の無上果を証得すべし。
蓋し射様に至っては、流派各々異ありと雖も、而も真実修行底に入っては、則ち一道に合流し、聊かも異るあらんや。即ち適者を便とし以て射を行ずべきなり。古来先徳の論ずる所、皆射形射様以て技の端となし、専ら道の成否を重んじ、其の弁じ易きを執り、其の碍あるを棄てつるのみ。論の生ずる所以とならず。ただ其れ未だ至らざるもの、その可否を論争するか。
射人一たび技脱射脱の悟境に在っては、千射万箭、失なく過なきに幾かかるべく、あに昨得今失の迷射のよくあるべき所ならんや。月を閲し、歳を累ねて益々射境円成、力量相応の弓箭を持し、心印自在の射を行じ、活殺自在の箭を発す。面々相接すれば、則ち見ずと雖も他射の失を指し、聞かずと雖も他の道境をテキす(あばく)。無為射脱の玄妙境、平常の中に現前せん。ねがわくは、参学の射人、射道の真を了得して射行怠りなく、見性射悟の妙慧を修し、以て護国大道の実を挙げられんことを。