射の事・型紙の事
射の事・型紙の事
矢を射る爽快感は心身のリフレッシュそのものです。
型紙を彫り、その活用から生まれる美しい姿は次から次へとまだ見ぬ創作へいざないます。
言詮に惑わされず、私意を弄せずに伝統の技を用いる意識は、伝統の正しい技が導き顕れる世界の驚きと創造的な新しい気持ちが湧き出します。
「無意識の世界」の想いを馳せ、そこから顕れる何か思い知ると「ひとには無限の可能性があります」と云われる先生の志しと、伝統の技を発明された諸先哲の心に触れる気持ちを感じます。
伝統の技の正しさは 先哲が実証した”かた・かたち”の偉業にあります。
射で云えば「骨法の理に基ずく射法射技の実績」であり
型紙で云えば「型紙そのもの」と「染色された着物」です。
伝統の技を学び用いるには 私意を弄せず 先哲の偉業と示唆される技の道理を研究して学び「正しく実践する意志を定める」事と学べます。
型・形のある藝ごとは先ず形を真似る事から入りますが、いずれはその型・形技の生れた”道理=何故、その型形技が生まれたのか”を学び、技を身につける随い”正しい技”と”横着した癖:雑な動作”の違いを自覚します。
心はその”はざま”に在って「正しく技を究めんとする欲求が深化」する事で「純化」されます。純化とは対極にある「欲望」から離れる事です。”勝ち負け”や”見せる姿の意識””早くうまくなろうと横着する気持ち”等、段級などの依拠して他者と比較差別で自身を見る目から離脱する事、と先哲の書から学ぶ事ができます。
その意識の転換と正しい方向に歩む姿を、良導の指導者は静かに見守ってくれます。
正しい指導者は、学ぶ者の「心の正雑」を指摘し修練の方向をただします。それによって学ぶ者は再び「何故、伝統のその技なのか」と、「その道理を学ぶ姿勢」を自ら糺し、実践で自覚し自立します。
良導の先生は、先人が築き歴史に練磨された伝統の技には「新たに技を創作して教える技などありません」と喝破されます。むしろ、技や姿・形に捉われず、結果に心が奪われず、今なすべき事・動作・行為をしなさいと言われます。伝統の技の道理に向き合い学び、心を正しく素直にして実践すれば、筋道が明確な伝統の「かたかたちわざ」の内に「正しい結果に導き」「新しき自覚が生み」ます。
型・形の道理を勉強せねば「指導者を選びなさい」と云われても迷います。それ故、正しい技を身につけたいと意思する者は、「正しい技」とは何かと自問しつつ「正しく学ぶ筋道が伝統の技に内在している道理」を理解することに努め実践せねば、中身のない形骸化した伝統に似た事物に覆われるだけで、渡辺京二氏が云われるよう、日本の伝統の事物は「逝きしの日の面影」となって日本文明はついえて終うのでしょう。
以上