十文字の規矩:真の矢束 と 総部の離れ
十文字の規矩:真の矢束 と 総部の離れ
離れの前
胸の中筋と引き収めてからの反橋
竹林派弓術『「引かぬ矢束と「真の矢束」』
『「彀」と「匀」』射学正宗
真の矢束(教本二巻 高木師)関し、以下の竹林派弓術書の記述(背景色有)をあげます。
「尾州竹林派弓術書」:財団法人生弓会蔵版 本書第一巻
此の書の項目を順にして示し「矢束」の重要性を、射学正宗た対比しながら、私見を( )に記して、吟味します。
一 七道の事 (「目当」と(射の理・七道に適った的中が目的と明記、七道の記述の次に「骨法」の基本が示されます)
一 骨相筋道の事 (定義と理解でき、既に説明しています。骨法の基本と矢束の関係を確認するため載せます。)
「骨法の直なるを直にそだて、曲がれる骨おば其の理に随いて然るべく筋道を正しくよろしき所に至るを云う也心は七道の五部の詰 又は 始中終の骨法射形伸びて縮まざるを骨相筋道と云う也 矢束も爰にて知る事 之あり 口伝」
(射の絶対条件、常に押し開き続ける事と自己の矢束に至る事が示されています。続いて「矢束」が示されます)
「引く矢束引かぬ矢束にただ矢束をよく口伝せよ 引く矢束 と云うは至らざる矢束也 初心の射手は位に付けずして我がこしらえて引く矢束なり 故に引く矢束と云う 引かぬ矢束 と云うは至っての矢束也 骨相調うては其の身に応じて自然に極まる也 その身に十分満ちて至る矢束 故に引くべき所なし 故に引かぬ矢束という ただ矢束とは歌の云いかけ也 」
(筋力で「我がこしらえて」引くと正しい矢束に至らないそれを「引く矢束」といい、骨力で引くと自然に自分の身に定まった「引かぬ矢束」に至ると理解できます。矢束はこの二つです。ただ矢束は付録の言い回しで教本や日置印西岡山系譜のような精神的な表現はありません。尾州竹林派弓術書には「引かぬ矢束」の先に真実がある事のべています。それが高木師の言詮「真の矢束」に表されたとまなべます。)
一 手の内の事 (腕首の五加と五ケの手の中を示す)
一 剛弱の事 附 抱惜の事 (バランスについて)
(総体の詰と伸びのバランス、骨力が直なる事が基本で、押手の腕首と 馬手の懸・弦搦の理によって、懸に心を通じない離れの重要を説いている。当然、弦道の過程も懸に心を通じない事と理解できます。)
一 懸合の詰めの事(縦横十文字の総体から胸の中筋から左右に離れる事)
「是も矢束に用いる義也 口伝大事也 又 くさびと云う体に定まる 是はつまるくさび也 離れのくさびは過ぎて四方へ破って散る如し 矢束のくさびはよきにしまるぞ 三つのくさびは是なり つまる轄と云うは惣体をくさびにてしめたる如くしまりて おちつきゆるがざるを云う 惣体のくさび也 離れの轄は良く惣体しまりたる上に胸にてさけてひらくる如くに離るる也 (射法訓と同義と愚推されます。引き治めての反橋、射学正宗 匀法に通づる技)矢束のくさびは引くべき矢束のよき程にて弓手馬手のしまる事を云う也 右三つのくさびのしまりたるを 懸合の詰め云う 矢束の極まる所也 故に 矢束に用いると云えり
末書の初巻に曰く 懸合の詰は 骨相筋道にあり五部にある義也と云えり愚案ずるに 爰にはつまるくさびなど品を分けて云えども 理は一に通えると知るべし 惣体のくさびもあるべし 然りと雖も 矢束の納まる所忘れざるがために 別に矢束のくさびとも記せるなるべし 矢束と惣体と共にしまりてつり合いたる上に 離れのくさびを用うべし」
(「愚」とは渡辺甚右衛門寛師;享保13年 と思います。渡辺師、総体からの離れを云っていますが、それは、横軸の伸合詰合いからの離れに集約され、それを可能にする引かぬ矢束を特に強調されたと思います)
一 弓の威(イキオイ) 矢のつもりの事(用途に応じた弓箭、道具のバランスの事技量に叶う弓力の扱いが正確な的中を生む)
一 弓脈の事 (的の遠近と自己相応の弓の強弱を知る事)
一 堅臥の二義の事(五つの法度を修行し、骨法を理解して身に着ける事)
一 雪の目付と云う事も口伝 (心を静めて、物見、目付をする事)
一 矢束の事
「先条に三つの矢束とて註したるばかり也 二つならでは無きに修学の位に知るぞ 引かぬ矢束は長し骨相筋道に附くぞ 引く矢束は五部の詰に附くぞ短きぞ ただ矢束は世間に能く口伝せよ 其の如く説きても 自師の位に稽古の上にて 能く究めてよし」
(自分で学び修得する極限の矢束が在る、と云う事を述べている。ここは「射学正宗のコウ法と匀法」の記述と同義と理解できます。射学正宗には骨法に適う弦道が記述されていませんが、彀に至る三つの状態をあげていますの比較すれば、「射学正宗」は骨法を示し、自然の理として記して、その本で人の道を示しています。)
(引かぬ矢束はつぎにくる胸の中筋を基軸に、胸の前を開き背の方を縮める「引き治めてからの反橋」によって矢束は伸び続ける状態の極致から矢は発動すると学べます。その極致が矢束であるので、自分が修得して自覚する矢束があるので「二つならでは無い」「三つの矢束:引く矢束、引かぬ矢束、真の矢束」と学び、三つの矢束と理解されます。「ただ矢束」などは歌にした時に流れで出てくる言葉で意味は無いのですよ、云われる事で、チャンと伝えないと間違える事ですと云われているのでしょう。「ただ矢束」に意味を付けているとすれば真意を調べなければわかりません。)
引かぬ矢束は長しと云うは修学至って極る矢束也 惣体の釣合を以て おおのずから引けるの理也 我力を以て引く矢束にはあらず 故に引かぬ矢束と云う也 長しと云うは骨相筋道調って惣体に満ちて不足なき所をさして長しと云えり 骨相筋道に附くぞと云うは 少しも邪に引くにあらず 骨相筋道に附くと云う也 引く矢束は五部の詰にありと云うは 未だ至らざる矢束也 我が力を以て引く故に引く矢束と云う也 初心の射手などには 身に余る矢ども引かせて教える事也 是 引く矢束を用いる所也 能く 口伝せよと也 短きぞと云うは 未だ至らざる射手は 骨相延びずせまりて 今引く所の矢束よりも 骨は短きぞと云う心也
(此処には教本二巻の「矢は長きを要す」を記した理由があります。そのうえで理解を深めるべきで、初心者、経験者、称号者によって用いる矢の長さは異なります。手繰りは姿を見れば一見して判ります、指導者の手繰り緩みもすぐにわかります、射手に理由説いて指示すべきで、無闇やたらに云われては射手を惑します。)
真の矢束から離れ:「弦道と矢束一杯のおさらい」
矢束一杯と縦横十文字
「骨」は長さの基準にはなりますが、「筋膜やスジや皮」が無ければ「骨はバラバラ」で骨格となって働かず、姿は現れません。専門ではありませんが、骨が骨格として働くには「骨格を包む皮膚と体液と呼気と筋膜と可動させる筋と筋肉」をが要りますと学べます。「骨格を包む皮膚と体液と呼気と筋膜と可動させる筋と筋肉」を身体力と呼べば、「呼気」はその態様を柔軟にして合理的に支配し、動態の縦横十文字の機能を発揮する重要な要素として考える事ができます。
胸の中筋から左右に動くには縦軸が基軸となて、縦軸と横軸を結ぶ総体の「筋骨」の力学的連動となって横軸の伸びる動きがおこります。 縦軸は「不動の中心を内包」して、重力に応じて上下に延び続け、横軸の起動の基になります。関節の自在性が骨力の動きの「直」を知覚して関節を「直」に育て、筋と皮膚筋膜がその状態を連続的に離れの限界まで進むのでしょう。
矢束一杯と縦横十文字はこの状態の極致を意識し左右に伸びる横軸のベクトル方向と、的線と矢筋が限りなく一致する動態と理解できます。竹林派弓術書に云う「弓は身に随い、身は意に随う」との示唆には「射」に関する多くの課題、テーマが生まれます。「矢束」に続く竹林派の示唆「石火の出が如くの離れ」という総部の離れも「骨法の定義」一つから生まれると理解できます。
当然ながら、弓は縮もうとしており、「初心の一意:弓を押し開くという意志」で過去身には、常に自分の中心から伸び広がっている動態が無意識に働いている事を自覚して、連続する一つの技射法八節の「現在身」は一心に弓を押し開かねばなければなりません、それによって「現在身は未来身を内在して初心の一意にある過去身を無意識に知覚」しつつ弓と弦を押し開き続けます。それ故。縦横十文字は動態であり、縦の軸の上から見ても軸に捻じのれモーメントはありません。「十文字の規矩に内在する骨力」を「直」に育てる骨法が示す動的の射と理解できます。
引分の反橋と引き収めてからの反橋
縦の軸は過去身・現在身とわず静態中の「上下に伸びる骨力」と「それを補完する身体力の静態」にあります。足、背骨、頸骨は目に見えない重力に抗して無意識に上に多かれ少なかれ伸びているのでしょう。
一方、横軸は「弓側の横軸」と「射手側の骨格の横軸」の二つの軸を意識して考えなければ反橋は理解できません。つまり、弓と弦は「弓手と弓手の接点」と「右肘を屈曲点」で張り合っています。この「二つの力線」は両端が結合して中が膨らんでおります。
射手側の横軸の骨格構造が「胸の中筋から伸びる規矩(身体の横軸の胸が開き、背が縮む)」に従い射手の両肩が「直」にのびるにつれて、弓側(弓→ 弦 → 右手の内・右手首 →右肘)の横軸の力がダイレクトに伸びる方向に連動して働きます。右肘に「直」に射手側の伸び続けるベクトルの方向性は、右肘が時計と反対方向に回動しつつ、弦枕が弦を自然に右手首が時計と反対方向に回動するベクトルを内在して、弓手に呼応した離れが意識をせずに生じると理解できます。総ては縦横に伸びる十文字の動態の規矩に従いおこなわれます。する事は何もありません。はじめは意識してと本多師や」先生は云われ、先生は「無碍」の離れに進み、やがて多くに弓術書に云われる自然の離れも無意識に起こるのでしょう。あまり経験がありません。
手の内はこうだ、矢は水平か、的はどこかなど八節の射形をなぞり、どこを押すのか、手首の力は抜けているか、詰めは、伸び、会の時間は等と穿鑿する射の姿は。『連続して「直」に押し開き続ける意識等は霧散』して、ひたすら縮み続ける弓弦に抗して、ひたすら伸びつつける意志の射の理とは全く会いません。姿は射に似ていますが、骨法に適う八節の姿ではありません。
本多利実師と梅路見鸞師は諸流派を実践究理したうえで、祖師をリスペクトして「射法射技の本は一つ」とのべて、如何に弓箭を手にする人が「法」から逸脱しやすいか、その心根を詳らかに示し。 骨法の射を自得してうえで、自然の理に則した「射」を求めて究理し、稽古を続ければそこに自分の心象を映し出す射がいつかは現れるのが、現代に活きる「射」と「道」の在るべき姿を提言されたと愚推します。
以上