弦がらみの稽古:左右同時に起こる稽古について回顧
冒頭、要の技で記載したことをもう一度挙げますて「弦搦」の稽古の事をのべます
先生は言葉では伝えません。「弦を執って指導される事」、「模式的に技を示される事」です。回顧すれば総て「弦道と弦搦」の技を自得するキッカケと、今はおもいます。すでに、段も上がっていましたので、必ず弦を取って指導できるようにする事、身体に触れて教えてはいけませんと示唆されました。当時、多くの指導者のその「失」を糺しておられました。
左右の稽古の仕方:私の回想から
弓を手にして20数年42歳のころ先生に会い「強い弓を引かなければ射の事は分かりません,歳とって射場の一射は六分数厘25㎏程度巻き藁では30㎏程が引ける良いです。先ずは教本に何故と問いかけつつ稽古する事」を進められました。
その時、弽の使い方と離れの模式的な方法と、弓手手の内の弓に収まる模式的な方法を教えて頂きました。大凡この方法述べますと、弓構えで正面の構えを整え、その位置で斜面の如く大三に移行する意識で弓を少し押し開き、離れの練習と弽の使い方を覚えます。習い性になるまで稽古するよう進められました。
以下は私の方法です。先生の示唆から私が稽古してこのHPの射の理の理解の中にある、私流であります。
正面で構えてから大三に移行する最中に「右手の内と右拳、右肘の張り合い、特に右手の内が力を用いずに審固となって力を感ぜず、右手首が伸びて(右手繰りが無く)、弦と右肘が「直」につながって右肘に意識が行って、右肘で弦を押し出せる(引ける)を感じが知覚される事を第一に意識して稽古しました。
大切なのは、縦横に伸びた正面の構えから弓・弦を開く時、右肘を決して折ってはいけない事です。教本の各師も記載されています。折らず、右肘から先は弓手拳にまかせる事、右拳は弦に引かれる事が絶対条件です。
もう一つは初めの構えです。縦線を効かせて左右同じ弓懐の意識で弓と弦枕に接しますので弓の張力を感じます。右手首を捻って弦を押さえない事です。右上腕で右肘を押し出すと弦枕に弦が当たり捻ったと同じ状態が生まれます。次に左右の上腕で押し開く時、弦が右拳を引き、右手首が自然に伸びる事を知覚できれば成功です。少し引いて止め、次に右肘を上腕の方向に押し開いて右拳が伸びる知覚を感じて、感じてはは戻し三度程繰り返し後、弓手に呼応して、両角見を強く押し出し、すなわち、右は薬指又は中指の先端に向けて帽子を強く押し出し、右肘で弦から拳を引き抜きます。離れと同じ意識で気合をこめて引き抜けば弦音が起こればまずまずと思います。引くのは少しです大三以上ひいては弓を痛めます。
一連の模式的な方法は図解か映像が現したいと思いますが、スキルがありません。検討しています。
以上は見ながら稽古できます。その事を教本神永師の記載に従って、目に見えない状態で、打起から大三の課程で「弦がらみ」知覚できる稽古をしています。
余談
稽古の方法について想う事(要の技の冒頭に重なります)
先生の師は梅路見鸞師であり、阿波見鳳師にも見ていただいたと伺いました。 梅路見鸞師と阿波見鳳師は本多利実師より見鸞見鳳の号戴いた兄弟弟子と伺いました。本多利実師は尾州竹林派を継承し、正面打起を現代弓道に据え、弓術講義録を著しました。教本執筆範士神永師は阿波見鳳師と行動を同じくして梅路見鸞師と射を交えています。
その様なことを思えば、池田先生に教わりましたこれ等の稽古の方法、弽の用法などはここに掲げる先哲の思想が反映されていると私は勝手に想っております。同じでは無いかもしれませんが、梅路師の開かれた武禅道場で行われた方法も含まれるのではないかと愚推しますが、伺った事はありません。先生には自分で理解してた事は自分の言葉で述べなさいと云われましたが、自身が無いので、先哲の言葉を基に展開しています。
要の技の冒頭に述べました事を繰り返します。先生が梅路見鸞師・阿波見鳳師から教えを戴き、梅路師の道場で樫野南陽師等と共に稽古されている事を想えば、弦を執って指導を受け、模式的方法も同じ方法であったと想うことにしています。先生から一言もそのお話はありませんが、先生は協会の総ての方に全く同じ様に指導されていました。「為すか為さぬか」本人に任せ、「為さなくとも為しなさい」とは決して言われませんでした。
「弦を執って教導される事」は本多利実師がなされたと生弓会の書にあります。本多利実師の骨法の理の実践と理解します。「必ず弦を取って指導できるようにする事」云われた先生の気持ちは「骨法の正しい技を身につけなさい」と云われたと今わかりました、その入り口にいる気がします。その程度ですが、首題の稽古を回顧して私の射の風景に記します。弦を執って指導するとは、「弦搦と弦道の技」を「弓箭の動きだけで射の理を自覚させる指導法」と理解できます。おそらく、私の唯一の弦道を体で感じさせ、矢束一杯からの離れを自覚させるためと今は思います。それが骨法の射であり、形に捉われた自分を見つめさせることになると学べます。今から思えば、「弦搦」の技が成り、矢束一杯を体感したとおもいます。
先生に弦を取っていただくと、何故か弓が体に良くはまり会が納まります。弓から手を離されて「後は君が為すのだよ」と云われます。そして良く当たります。私だけではありません。弓友は皆さんおっしゃいます。歳を重ねて今弓友の弦を執らせてもらいますが、中るときもありますが外れることも在り、未熟さを実感します。
先生は射手には絶対触れません。「弓と弦を手にして」、射手の動作には構うことなく、射法八節の骨法の理を示す私の骨格に唯一の弦道に適う「弓箭の規矩」に従い「弓箭の動き:弓箭の動くべき道筋、在るべき姿」を先生が行います。当然、私は悪い癖の道を行きます。射行中に私が感じるのは、殆どが体引き上げられ、前に引き出されます。弓友、ほとんどの人がその事を言います。射手は動作は先生は無視しします。正しい弓箭の動きだけを先生がなさいます。何故か。そのあとのことはこのHPの記述になっています。