鈴木大拙師と梅路見鸞師の示唆
自他が乖離しない一元的認識と因果の二元的認識
と行為伝統の技の実践経験
鈴木大拙師と梅路見鸞師の示唆
自他が乖離しない一元的認識と因果の二元的認識
と行為伝統の技の実践経験
梅路見鸞師と鈴木大拙師は共に円覚寺にて釈宗円師に同時代に師事したと愚推します。またそこに西田幾太郎博士や長谷川如是閑博士の姿も思い描けますがその他の弓道の士は見えません。以下に梅路見鸞師の「顕正射道儀」に一部を抜粋させていただきました。全文をこのHPに載せましたので必ず全文を読まれる事をお願いします。
「・・・念々弓箭を忘れ、刹々射定中に入り、弓箭を失い、射身を没し、気息に関わらず、満を張りて、持せず、発せざれば、本有の心と雑妄と自ら不二と化し、上下四方、萃然として一隙なく、浄心清体の我一枚となり、彼来我到って、一切自然、明光として我と相融合し、念々の行々、無限の大に到り、無量の底に及び、十方大千に充満するに至って、還って我に帰す。乾坤一枚なり。何れにか彼我あらん。何れにか然らざらん。発、生じて天地を尽くし、なお悉くを中に存す。而も光風霽月玲瓏たるの我。此の間、一息の停続なく、出づるは発。入るは満。乃ち是れ射の大円成相なり。・・・」
前項に記載しました本多利実師、鈴木大拙師、梅路見鸞師の事実認識に差はありません。私の経験では射場の一射には時としてこれに至る過程や兆候が我知らず顕れているのではと信じます。射にかかかわらず日々の何気ない行動の中にもそのような兆しを意識します。更に、他の方々の行動にもその兆しは感じますし、特に、射に於ては初心の方の一射に感動し、その感動こそが純真にして無垢の何かを引き出す力が射の行為にある事を感じさせます。その覚醒は善導の師に因らねば不明な事と学べますが、誰にでも在り、見えない入口に至る筋道を意識して学ぶ事にします。
このHPでは二つの異なる伝統の技の実践の内にある、主観と客観の統一が覚知出来る動作、つまり詮索的な動作を克服し即座にその時の心の状況、心象と事象が乖離しないを状態を知覚する訓練を重ねて考察したことを書きおろしています。射には自然の理に則した「射法」という「型・骨法」がありますので「正しい技」が明示され先哲の事実にが示されていますので筋道は明確です。先ずは、先哲の示す「法」と「理」ことわりを学び続け、実践にて常に自身に対峙します。染色技には総合的で一貫した技の記述はありません。それで、材料の用意と調整、作業環境に段取りの二点の心象と事象を具体的筋道にして、実践の中のその瞬間に生じる事象と心象の知覚を試みる事にしました。
行為のその時、「正しい技」の自覚と自得に至る具体的経験の検証と事物の考察を通して、心にうつる「正しい技」と「癖の技」にある意識の正雑と「結果に捉われる気持ち」と「今なすべき事に集中する気持ち」にユリ動く心の所在、ヨコシマ邪な欲望の気持ちを見通す修練を重ねます。その視点から詮索する自分の心の所在に「かたかたちわざ」がどのように関与しているかここに掲げる三師の明言から問います。
「雑な作業・行為」の自覚は「不正の癖の技」に比較して相対的に自覚されるのでありません。つまり「行為する自分の姿を詮索する因果関係や比較差別の二元論認識の世界観から脱し」常に為すべき正しい事に素直に向き合う事に始まると思います。それによって、因果の世界から解放され「直に自覚される」事で、全存在の自在性、つまり自分を含む周りの境の無い動作又は行為しているその瞬間の心象と事象に「その行いはそれであってそれ以外は無い」と自覚し意識できる、進むべき筋道が自ずと示される事を想定しています。
今は、このことを心に据え、修練行動する事と思います。之も又 詮索する因果の中とも思えますが、入り口は不明です。その上で「かたかたちわざ」を考察し実践する筋道を描き、今、自覚する二元論的認識の世界を歩み続け中で、生のエネルギーの自然に合理的な面での一元的な行動と意識と無意識の世界の境等無いところに再び向う想う事自体、禅の世界云えば「独学不成立」の証明なのかもしれません。
変化する道具として型をとらえ、変化とは何かを考えれば「自身の意識」であり心であります。型は過去身であります。考察している現在身には過去心も未来心含む現在心であり、形は技によって現れる姿・未来身であり、現在心に未来身と過去身が巣くえば、現在心は権威と欲望、欲求の間を彷徨います。先師をリスペクトして学びつ続け、実践して想うことを書き下ろします。