心・精神・理念
「正しい技」「正雑」「正邪」「正しい心」
「正しい」と云う言葉は弓術書に良く現れます。
何故でしょうか。
「法」が在るところには必ず「法外」もありますが、射の姿はその見分けがつかず、つかない仕組みを作ります。
心・精神・理念
「正しい技」「正雑」「正邪」「正しい心」
「正しい」と云う言葉は弓術書に良く現れます。
何故でしょうか。
「法」が在るところには必ず「法外」もありますが、射の姿はその見分けがつかず、つかない仕組みを作ります。
自然の理に適う骨法の射を創意工夫し偉業を為した先哲は、射には「法」を外し、七情の「邪心」や勝ち負けの欲望、段の上下による権威化に心を堕とす器でもある事を警告してるとおもえます。その姿は射に姿は似ているが射とは別のもので「法外」の邪道が必ず付きまとう事を心しなさいとの警告されていると学べます。
飛び道具ですから”あたる”事を”ヨシ”とするは気持ちは誰の心に去来する事です。
しかし、当たる事が”必ずしも「正しい射技の結果では無い」と教えられ
「正しきを己に求める」等の指針が「射の道」にあれば、
先ず「正しい射法射技とは何か」を自らに問わ無い訳にはいきません。
本多師が言われるように、指導者は謙虚に之に答えねなりません。
”技即道”と道を唱えた技を指導するのであれば「形ばかりを教える射の姿」は「射は骨法の然る所以を知らない正しからずの姿勢」と明断する本多師をはじめ諸先哲の指摘に応え、之を唱える先師にならい「六分数厘程度の弓で、射ぬ前に中り外れの理を知る骨法の射」の内実を説き、実践して「骨法の然る所以の射」を示さねば成りません。当然、「射」によって”道即技”と「道」を説く指導は、修行を為された導師と等しく人を導くのが主目的でありますから、先ず、道法を示し射義を明らかにして、実践で導く「理と実」が体系化された基で、人を開明し自立させる事と学べます。明治の黎明期から150年余りを過ぎた今、どこにいるのでしょうか。
「正しい」と云う言詮 以上
つぶやき
筋道と迷い道
明治の黎明期に伝統の技に「理念や道」が備わって、その理念の具体的実績は既に顕在化し現代の生活に実証され今に至っているはずです。でも、それは、現代の射の「どこにどのように現れている」のでしょうか、見えもしません。「弓道」と「道」という言葉を掲げながら射を語られても、また「道」を「礼」を自ら究理する事も無く、段の上下を封建時代の礼の様に混同される事態を見るにつけて、正しい入り口は未だ不明です。不明である自身を問えば、先ず、先哲の云われる事を学び、その道理をたずねて、只管、より強い弓を射こなす事から始めて「射の道理を究明」し、実践で体得する事が「正しさ」を明らかにするのがすじ道と意識して、恣意をして「先哲の思想」を取り上げて掲載し、考えて続けてゆく事が「射の理」に近ずくと理解しました。
射学正宗で高穎師が言われる如く『「射は一筋の大路、自然にできた事」で天は人に「慈しみと」「正しい行い」を以て「射の正路」』と云われています。それ故、自然の理である「骨法」を正しい方法で学ぶ意識を心に定めなさいと理解できます。高穎師は「射に正しくないこと」は時代の様相に応じて無数に在り、その背後には、射に限らず時代や民族を超えてヒトに普遍の「不正が在る」のでしょう。文化や文明の世界にあって「正しいこと」の認識は生れた時に備わているいるわけでは無いのでしょうが、骨法の射が自然の理に基ずくのであれば「正しい事を正しく受け入れる生命力」は、本来、誰にでも備わっていると先哲は明断して述べており、之を意識して取組みます。その意識は生涯かけて学ぶ事と教えられます。射のおいては”自分が正しい道を歩いているか”、”方向もわからず迷い道にいるのかは、まぐれ中りを含む「あたりはずれ」よりは ”少し強い弓を射こなせるか否かを実践する筋道を加味した方が「正しい筋道か不正の迷路」か射行中に知覚し、明晰に自立させる”と私は理解しました。
大事なのは自立する事と学べます。それで、射はどこを見て実践するのかと云う事でしょう。外形にとらわれては「射をなす自分はどこにいる」のでしょうか。いつも見られる姿、意志は他力の中にあり、自分の心は霧散し筋道は見えません。心は射を成している現在心そのものを射行を通して自分自身を見なければなりません。心に浮かび来る「欲望と欲求の狭間」に立って心が純真になる事」が、射によって自覚されねばならないのでしょう。良導の師は射手の心を洞察した瞬間にその正雑正邪を指摘されると学べます。学ぶ立場から「心・精神・理念」に向き合うには、先ず、先哲の示唆を心にとめ、経験した事象の「正雑」と「正邪」を思う所に随って書き出します。
筋道と迷い道 以上
癖、勝ち負け好む
教えたがる癖、権威を見せびらかす癖。「技」を身に着けると直に教えたくなるのは、弓だけではありません。寧ろ、教えたくなる性格の人は、あらゆる事おられますが、それに肩書きがつけば、すぐに先生と呼ばれたがり、果ては呼ぶことを強要し、技に礼や道が在る武道でそれに名を借り、礼をかたちどり、形式を強要するのが常でしょう。パワハラ、セクハラの根源です。
本多利実師が「武道の礼」を述べられています。躾と礼と間違えて、家庭を築き社会生活を立派に遂げられた高齢初心者に礼を強要する 失礼さを見ては、現代の弓道における射とは何か考えさせられます。また世阿弥は、修行する者は博打をするなと云っております。勝ち負けを好む癖 アタリハズレを好む欲心には射幸心が眠り博奕を好む癖を誘発します。未来を見込む事、占うことなどは誰にでもある性格に思えますが「道」を云いする「弓道」が射幸心を助長しては本末転倒です。そのようなアタリハズレのまぐれの当りの心は、別に競射でなくとも、勝負事であれば何でもよいのです。その世界では類は類が類を呼ぶので勝ったものが「正義」でそれ以外は存在を認めないし、疑いません、それを正すのが「法」のある弓道です。勝者は敗者を心が弱い、気持ちが弱いと、勝負に挑む意識の虚弱を指摘します。精神力が弱いなどとは異なる場慣れの為す意識の次元の話と思えます。射の精神力は膽練に結びつくもの先哲の書から学べます。弓の強弱を以て射に正しい技の筋道を求める稽古では、勝ち負けすら問題になりません。スポーツの世界では常にハラスメントが起こるのは、勝ちこそ絶対で、オリンピックの理念など霧散しています。
諸藝に付く「道」
射を学ぶ誰もが、初めて理念という言葉に接した瞬間は、純真に其の事に向き合っているのでしょう。これを利用して人の上に立つ等と考える人は邪教の教祖や野狐禅の導師や詐欺師のたぐいでしょう。始めは理念等関心も無く、理念に付随すると云われる「技」が身に着き経験も重ね指導する立場になり理念について尋ねれれる事もあれば、知らずに理念を語り、更に経過すれば、理念を背景に「技」を云いすることもあるでしょう。「理念に添った肩書き」を求めたにもかかわらず、理念を究理し実践自得する事も無ければ、次第に理念や道など日々の稽古から霧散して、初心の人を迷い道に置き去りにする罪は逃れられません。「理念」を学ぶ立場も構えねば成りません。
振り返れば、矢を射放つ興味に誘われて弓を手にした初心の時は、「射の理念」等少しも 脳裏に浮かびませんでした。幾多の「弓道誌」を手にして始めて、純真・邪心・徳・礼など言葉の背景に、「人間性」に係る射の理念がある事を知ります。技を用いる意識、心ににあまたの言葉に触れ、「技即道」「道即技」の述語から心して「道」を求める事が射の修練になる事を指導されても、未だに不明です。仮に「人の道」を射の修練で実現する事を目的に指導される人は、如何なる具体的な方法論が在るのでしょうか。たとえば叡山の千日回峰行の修行の様にその仕組が整えられ、その道法に基ずき幾千年の歴史と多くの死をかけた修行僧の苦難と屍ビよってきずかれた具体的方法に照らすモノが、射の道に在るのでしょうか。弓箭を用いて「道」を掲げられて「弓道」を指導されている、その手法と実績を伺いたいものです。武術の多くに「法」が無いので、あえて「武道」の名称にしたとは思えいせんが、射術には「法」が在り、それ故、その中に「正しい筋道随う、正しい動作とその結果を心見る」時に「筋道」が映る事で第一段階に進むと思います。本多師の「素引き」の話から、それは素引きに表われると思います。なぜなら、弱い弓が強く感ぜられたも八節の筋道に従っていればすぐに弱い弓は弱い弓に変わるからです。
実践する事で「正しい理念」を自覚し理解・体得できるのであれば、本多師や高頴師が学ぶ者、指導する者に向けた、極めて多くの警鐘など不要でしょう。此処で取り上げる課題でもありません。射にはそれだけ正しくない事が行われる本質があると云う事を自戒せねばと思います。技については ”形だけを真似る不正”を今まで問いを投げてきましたが、「道」や「理念」という言詮いにも、同様の問いかけ為され無ければ、権威のための画餅になり欺きます。
欲求と欲望
初めて射には「法」がある事を知れば、「正しい一射」を為したい「欲求」は誰もが内にもっています。具体的には、行射している今を尽くし、一切の先の結果を心に生じさせない事、因果を離れた射こそ「正しい射」と竹林坊如成師は述べている事から学べます。
それで、弓道を「道」とする人は、当り外れとか、勝ち負けとか、上下関係など相対的な比較差別の「欲望」を心に於て稽古をしない人なのでしょう。詮索したり、アタリハズレの結果に心を奪われ、何故規矩があるかも学ばず姿形を真似した射の世界は因果の中をさまよいます。
寧ろ、正しい技を身に着け、全身の力で一射を尽くしたい、と云う「射そのものに意義」つまり「自己欲求を生涯求める射を身に着ける」事に意を注ぐのでしょう。現代の弓術書に記載されている意識の背景と受け取られます。
今を自身を尽くす射は、手の内は 大三は 打ち起こしは 狙いは 当たるか否か等 詮索する事を離れ、因果の渦の外にいる射なのでしょう。弓を射る仕草は見よう見まねでできる、太古から一人で為せる技です。その上、現代の弓箭は無用の具でありますから、他人に迷惑をかけなければ自己の価値観に基ずく、本来の弓箭の活用:自由で豊かな多様の表情を社会にその姿を現す筈です。射の「法」なぞもともと必要は無い処迄意識は向かいます。「法」があっても競射などを見れば意識は中り外れの結果に取られ正しい射など念頭に上らないと思えます。指導者も又同じ様に見受けます。射は誰が見ても規矩に適っている入るか否かはわかる事ですから。
矢を飛ばす開放的な感覚と、道具を用いる意志に芽生える合理性の意識、この二つの視点はいつの時代にも常にある感覚と意識と思います。それ故、個人で稽古修練するヒトもいるし、目的を共有して組織を作って集団で活用する人もいるでしょう。本多利実師は「射法正規」に ”時所位に応じた射”など述べられていますので、正しい射を心して稽古しても癖は射は必ずでます。それを正しく導くのは経験のある指導者の役割と本多師は云われています。「清き水に魚すまず」と本多師が言われるのは、正しい技の射にがちがちに意識がとらわれ、正しい技でないと射では無い等と排除しては、射のもつ豊かさを見失う事に注意を喚起しています。「清き水に魚すまず」と云われる示唆に心を向ければ、現代弓道射の多様な姿性こそ時代を超えて射の文化が継続すると思います。美しく射る事、射礼・体配に稽古の時間の殆ど取られ、一週間に一回の稽古で数射の実践では、矢数をかけねば分からない技の自得はなりません。形式・権威主義はかえって射を消滅させます。
射の姿の多様性
しかし、多様化はいい加減に扱われる事で無く、自覚、分別して為される事と理解できます。その事は指導者の為す役割でしょう。当然、学ぶ立場からは見れば、指導される方自身の射に対する価値観、自得された射の道理が明確にわかる様、事前に指導者が自ら明らかにすべき事と学べます。弓術書を用いるならその出典を示し説くべきでしょう。
各市町村の弓道協会の目的には”弓道を愛する人の親睦と健康と、各市町村の文化的な向上に資する等の目標”が掲げられていますます。それに賛同する各市町村が弓道場を建設することもあります。個人道場が少なくなった今、弓を引いて見たいとの初心は各会の目的の中にあります。ここに集う人には、経験者も居れば高齢の初心者もいます。学生から90歳を越える愛好家もいます。神の道を探求したい人もいます、 禅を為す人も、勿論、外国の方もいます。段を目標に自己啓発をする人も競技を目指して勝負したい人もいます。勿論 「道」を求めて「弓」を手にする人もいます。「只管、正しい技を究理する」人もいます。およそ弓を愛する目的とその利用は多様であり、その価値観の多様性こそ各市町村の力になり、その多様性こそ日本の弓の文化の力に成るはずです。ひとつの事に形や枠にはめ込む指導してはどの文化も衰退するのは歴史が示しています。何故でしょうか。
射幸心と云うまぐれ当たりの競い、射法を無視した競争は心をむしばむのでしょう。でも、実際は常に競射を好み、指導者は自ら的中を以て昇段を目指すだけで弓術書を脇に於て、正しい規矩を稽古する姿はあまり目にしません。日頃、指導される姿が先哲の云われる事と少しでも異なれば、常に先哲の書、教本に問い、心して「射法に適う正しい技」とは何かと問い学び続け無ければと自戒して進めます。教本に記載されている事を問うても、残念ながら、教本すら読まれれていないような自己流の癖の技で答えられている姿には驚かされます。
つぶやき 以上
「尾州竹林派弓術書 本書第二巻中王の事」生弓会蔵版
一 三業三心と云うは 身弓意 又は 弓弦箭 の 事
「…弓は身に随い 身は意に随うべし 意は業に志す所也 其の意と云う根本は何ぞ 一心なり 一心正からざれば各々相性する事無し…」
「日置流射儀初学式」 雪荷道雪派 弓道全集第三巻
射の大義
夫射は心術を第一として容貌威儀に闕くる事なし。所謂内志正しく外体直にして 其徳功を以て用を成し得る事なれば、此道の至て深き事を知るべし。
「射法正規・中巻」本多利実著(明治40年)
射道は何事に附ても正しきを思いて、其の理を忘れざる事
…。都て物事正しき方を宜しと為す事條理なれども。其中に又、清き水に魚住まずという諺言もあるなれば、正しき中にも時所位により一様に心得ても、又 癖す所もありぬべし。是其取捨勘弁は鍛錬の巧拙の上に分別すべし。兎角 研究に有べし。却って邪心は万事に随う事は各精神的に断然して有ものなれば、其業其物質的に有るか、中にも弓は他に勝れ強き故にかくは戒めて 一の条目として記し置ぬ。」
「弓道講義」本多利実講述:大日本弓道会編(大正12年;1923年)国立国会図書館蔵
(明治42年大日本弓術会編「弓術講義録」本多利実講述に同じ文が有り)
第一編総説 第二章 修習の順序
第一節 弓を学ぶにつきての心得
…即ちこれから弓を射て見んとする人の心得の規矩(カネ)につきて御話しましょう。 就て先ず弓を射て見様と志す人は、第一に心を正しくすることで御座います。心が正しくなかったらなら、如何なる順序を踏もうが、如何に立派な法則によろうが 到底、思う様に射られるものではありません。…
「武禅第二巻」梅路見鸞著(昭和10年)
修業の要諦
…。行動達成の素地たる純真となるのに大別して二つの途がある
一は理情の二見を超え、心根に自問自答して真実の叫びを聞いた時
一は理の当然に徹して無限の向上を欲求する時
此の何れかに因って修道する者は、必ず自己の所作を断って純真となって居るのである。即ち純真は道そのものであるが故に、純真は純理を覚り、純理は純道たることを覚証するのである。…
「弓道を学ぶには」池田正一郎 述
弓道を習得するには、先ず一切の心の囚われを離れ小児の様な純真さに返って「射」を行う事、肝要である。かくすれば自然と「弓を引き矢を放つ」という「射」その事についてよく納得できるようになり、自然と弓道の本質を体得するに到るものである。このように心を純真にするには
一、心の底に自問自答して真実の心の叫びを聞くこと。
一、射法理論と肉体の合理的使用に忠実に徹して、向上の一路を無限にたどろうと欲することであろう。此の二点の中の一つを己のものとして追及していけば、必ず純真となる。
…(以下、別項に全文を記します)。
「道具(スマホやコンピューター技術、弓やダイナマイトなど等)を正しく使う意識の形成」には、一人で技を磨く「弓」や「型紙」等の道具は良く在っていると思います。
その事を思いつつ「射をる意識・無意識・心」を考えて行きます。
見えない姿と世界は私の経験を軸に思いを述べます。先哲の示唆を実践して、心に浮かぶ模様となります。「骨法」も又、”骨を主に用いると技”と云う意識に捉わるといえます。
射法八節が武士の時代に発明された「法則のある技」は時代の必然的な結果と云えますが先哲は「骨法」の生まれ来る基に意識や心を置く事をと同時に書き記しています。
これは梅路見鸞師が指摘する事と類推します。本多利実師が言われる「本は一つ」と射の背景にある姿を意識して私は見たいとおもいます。
昭和の初期に本多師・梅路見鸞師・阿波見鳳師が述べられた表現や言葉と同じような文言を、現代の弓術書、弓道書、武芸書等に見ますと、戦後、射法八節に「弓道」を据える方々の理論表現に大きな影響を与えている事が窺えます。
何故でしょうか。(最後に続きます)
「弓を手にする正しい心の自覚」「心を正しくする」
「弓を射る正しい技の自覚」「技を正しく成す」
段の認定は心の正しさの証明書?心の正しさを示す行為
段の階級は行動の真実の認定書?技の正しさを示す稽古
段の進化は徳を行える性状進化の能力書?礼とは何か