かたかたちわざの事
かたかたちわざの事
私たちは、何故、型や形を考え、想像するのでしょうか。
植物や動物、大地や空気、水は、何故、多様な姿・形をしているのでしょうか。
目に見、心に意識する世界に繰返し起こる状態、規則性は自然の本性なのでしょうか。規則性や再現性を認識するのは人の身体機能による必然的な心象なのでしょうか。人体が細胞からなり、細胞がタンパク質等の分子からなり分子が原子からなり、原子が素粒子からなり、物質界が反粒子の存在を模索するなど、あらゆる事物に法則などの型を見出し、形や変化の現象を生み出す背景の電磁や重力やエネルギーを見出します。そのもそもその本になる宇宙は膨張して変化すると、何故、認識するのか。それでも変化を特定できず新たな宇宙を対比させて認識すのは何故か。そこに力学的なプロセス(技)を明らかにして、ヒトと周りの世界を意識して認識、あるいは自他と接する方法として「型・形・変化のプロセス(技)」を工夫している様に見えます。科学的な観察と認識の中で意識が形成され二元的な認識から離れない心象の中に、伝統の技の理を学び先人の偉業とその言詮に接すれば、その「かたかたちわざ」の根にある「自然の理」は自他の乖離など無い一元的な認識と行動が無意識の世界と意識する世界を感通して我知らずに顕われる事象は何かと思いを馳せます。
変化を認識する道具として「型」をとらえれば、「型」を意識する世界以前の生を受けたその瞬間から「型」を意識する無意識の変化が想定され、生命現象の新たな事が明らかにされていきます。意識と無意識を感通して無意識の世界から意識の世界に変化する心象に在って意識は一つの「道具」のようで在ります。射の実践を通して「骨は体内にある道具」として「型形技」を考察するには、「かたかたちわざ」の本源にある意識と心象を抜きには考えられません。意識は無意識の世界にあり無意識の世界は自他を境界を存在させない前提で「意識」を道具としてとらえ知覚した「心象」もまた考えねば成らない事です。
物質で考えれば人の寸法に比べ宇宙にはあまりにも大きく、物質はあまりにも小さい。素粒子の大きさからみれば、足の先の素粒子の位置と頭の先の素粒子の位置は宇宙的です。そこを飛交い貫通するエネルギーの速度と生成条件は同じなど等科学的認識は「型形・変化の法則」をもって「かたかたちわざ」を創造させます。しかし事象の変化は変化した瞬間にも変化し続け、対象はすでに別物であります。現在を認識する「型形技」などは「常に変化してしていかねばならねば正しく認識できない」なら「変化を認識する型」の本質が問われる矛盾を含みます。その事が変化の中を彷徨う事象と心象の揺らぎとなって変化の中で安心を求める生命の活動の根になる思いをえがきます。個で云えばホメオスターシスであり、人・集団で云えば慈しみと言えるかもしれません。