「筆紙に尽くし難し:自覚」
尾州竹林派弓術書゙には「筆紙に尽くし難し」という記述が常に付き添います。
例えば、骨と関節に通ずる骨力が「直」で無ければ、「真の矢束」には至りません。又、関節が伸び切ってしまっては、骨格は働きません。関節が押しつぶされていればても、押す力を新たに意識して出さねばなりません。何れも、バランスを崩します。関節で向き合う”弓の力と、射手の骨力”のバランスの崩れは、筋力を使うので重みを感じます。この状態を知覚出来るかできないかは技量と扱う弓の力で変わります。
バランスの知覚は技量が進めば進むほど微かな変化も感知すると先哲四師は述べています。而も、全身で弓を押し開くわけでありますから、それこそ、すべてをどの様に知覚すべきか「筆紙に尽くし難し」と云われ、真の矢束や縦横十文字の規矩等骨格の極限状態を知ることは自覚して知ることで、それは、受ける弓力を変えて知る方法を以て直し、丁度良い状態を自覚する事になります。
技量の無い時から、技量が進み上手になれば微かな狂いはその一射を破綻させます。それ故、学ぶには良導の師が必要と云われるのでしょう。当然、、ワザの記述だけで理解できない事なのでしょう。
弦搦、弦道は左右のバランスの中で生まれて来るもので、骨力で射をすることを知り、行わねばわからない事です。少しわかったと思っても、さらに精緻な状態を知り、先人がいう「筆紙に書いて分かる事」ではないようです。
意外と分かった事が実践で現れないために、又探り、詮索しますが、往々に丁寧に技を為さず、つまり力を感じているので己の正雑、技でいえば剛弱の知覚を自覚しないからとおもいます。少し弱い弓で丁寧に技を為せば知る事が多いと自戒します。
骨力によって射形が現れる事をいくら紙に書いても、射形をなぞって筋力でなす人々にとっては理解できない事でしょう。それ故、筆紙に尽くし難し事知るし、その究極は自師賢覚の事と明示しているといえます。
本多利実師は為さない方にはわからないと云い切っています。
以上