伝統の技
伝統の技
可能性をもとめて
学ぶ心に創造の芽を育て自立を促す伝統のわざ
幾百年、幾千年も生活に根差して来た伝統の技は、先人の偉業と「技の理(ことわり)」が時代時代の文化の中に再生され、歴史の洗練を受けて伝承されます。衣食住の伝統の事物にふれ、神事や修道の行、武藝や書画、能や茶道などの伝統の技を学び、共にする生活は心に潤いをもたらします。伝統の技を自ら手にして実践すれば、日本の風土と文化に根ざした創造と自己開発の筋道を伝統のわざの実践のうちにみることができます。
明治に入って、西欧の科学の知識や生産技術を扱う近代や現代人の意識の形成に、日本の伝統の技による偉人の業績と文化の中に活きずく伝統の技が目に見えない役割を果たしていると多くの文献から学べます。そこにも伝統の技の鍛錬が自立と創造性へ導く力が有ると感じます。
今日、伝統文化を伝承する職業人の困難さと熱意をメディアを通じて知る一方、誰もが伝統の技を実践する機会も増えました。多様性を大切にする時代、職業か趣味かにかかわらず、人それぞれ思い応じて伝統の事物にかかわる機会が生まれています。
技を学ぶ心の姿:欲求と欲望
自然のことわ理をもとに生まれた伝統の正しい技を純真に学ぶ心の「欲求」と、競いあう意識や上手下手、段の上下などの比較差別の「欲望」の心は「技を学び修練する時」に必ずうまれます。技を学ぶ純真な欲求と比較差別の競争心を好む欲望の狭間にある「心」の姿、伝統の技に顕れる二つの姿に注目してこのHPでは技を学ぶ立場から「伝統の技の伝承の課題」を考え、その本に在る「かたかたちわざ」の課題に触れていきます。
伝統の技の修練が創造心と自立心を培う可能性を学ぶ者は純真に心して「正しい技」を求めて「そのことわ理を学び続け」、指導者は先人の偉業をリスペクトしてその「正しい技の理」を究明し、伝統の事物と事実に習い実践して学ぶ者に示す事で「正しいわざ」を伝承し、学ぶ者の創造の芽を育て自立を促す事が要になります。
生涯学び技は進むものと,どの分野の偉人と先哲が謙虚に云われる事です。しかし、指導者や先生の数だけ流派が生まれ、往々にして形式と資格の差別化に学ぶ者を導き、他派との差別化と組織の権勢に組織が向きます。学ぶ者も数年もすると先生と呼ばれる事を好む方も多く見ます。指導される人は常に「初心に還ってと云われる」にもかかわらず、指導される人が謙虚に生涯学ぶ意識より、名声と肩書の組織形に拘泥する意識に埋没するように思われます。伝統は往々にして「礼」と云う名のもとに、上下関係に学ぶ者を縛り、自由で自立を促す伝統の事物が、差別と競争の道具にされ、ついえていくのは歴史を見れば明らかです。
業として伝統の技を伝承する方々の苦労をメディアで知ればその姿勢に敬意申し上げる一方で、伝統の技を教える組織や指導する資格などを付与する組織はいつの時代も生まれるのは何故でしょうか。
二つの世界
伝統の技を為して顕れる事象の真実は先哲の偉業に明らかです。技を為す前の準備「段取り」等を含めて「かたかたちわざ」も先哲の偉業にすべて示されていると学べます。すべて明らかにされている伝統の「技」を伝統の「型」「形」に随っていざ実践すれば顕れる事象と心象は全く異なります。そのことこそ伝統の事物や技が現代社会に活き続けているのは何かとの問いの入り口になります。
伝統の技を学ぶ姿には「正しい技を身に着けようと心がける心の姿勢」の一方で、誰でも始めは見て習い動作する事から「技」の稽古は始まるのですが、伝統の事物のうわべの「型」や「形」を真似ても一向に伝統の事物にならない事を知っても、多くは伝統の「かたかたちわざ」に内在する道理を学ばず横着して促成栽培の如く、外見だけを比較差別して「かたかたちわざ」の内実とは異なる伝統に似た事物を作ります。伝統と銘をうって伝承されるひとが肩書を身に着けこれを為せば伝統は外見と名称だけのものとなる、と偉業を為した先哲は常に警鐘をならします。
伝統の事物の発生に想いを馳せれば、その土地の風土と文化社会とに育まれた「自然の理」に適う「かたかたちわざ」が常に伝統の事物に内に見る事ができます。伝統の技を身に着けるには、伝統の技に内在する「かたかたち」の本にある道理や筋道に意識を向けて学びこれを究理して実践の動作を行い、常に「正しい技」は何かを自問しつつ伝統の技を身につける中で、自身の意識を問います。
伝統の「かたかたちわざ」の「ことわり」を明らかにする思索は「伝統を技をなす自身の意識と心」と対峙させます。伝統の技を為す筋道の内に、誰もが生をうけた瞬間から「自然のことわりにそって、純真な生命の記憶を無意識の領域から引き出す感性と意識」に触れる事により、自立と新生へと想いは巡り各自独特の意識が創造的な伝統の事物に想いはめぐります。
予知と決断
モノの産業革命から情報革命を吹き抜けて「意識と心」の領域を目の当りに生活している今、ヒトの手で為した「かたかたちわざ」とは何かと問えば、伝統の技の実践中の心を顕かにし、あらわれる事象に謙虚に向きあう心象を己に問う鍛練の方法・手段・手だてといえます。
其の事は「事実に素直に向き合う姿勢」を養い、伝統の技を「実践する以前に為すべき事を明確に心に定める創造力」を養い、「決断して実行する心象」を明らかにします。当然、指導される人の心と行動が先哲の実績に於て問われる事はいつの時代も同じで、その事実に向き合っているか否か指導される人の心の謙虚さは常に指導する姿にあらわれます。
「為すべき筋道や型」と「正しい技の規矩」が示されている「伝統の技のもとにある道理:自然の理」を自ら問い、学び、究理して自己の意識と向き合うこを初心の時に無意識のうちに知覚します。稽古は「伝統の技を正しく実践する事」で「正しい結果に至る」と心に定める事で、伝統の技の修練の「事前の段取り」「技のことわりの理解」におうじて、伝統の技を実践するその時の迷いや詮索から意識を遮断して予知と決断が瞬時に実行されます。
伝統の技を惹かれ稽古を継続して学ぶ意識に何が顕れるのか、伝統の技と事物を創造工夫した先人は後世の人に問うています。もとより「かたかたちわざ」など無いと云われるのは何故かと問わずにはいられません。
心底為すべき己を問うか、格好を真似て結果だけ得よとするかその心象が問われます。「型形技」の世界には二つの世界が必ずあることがわかります。指導の姿もこの二つがある事を学ぶ者は心せねばなりません。それ故、師を選びなさいと先哲はいつの時代も云われます。
「段取りのことわ理」又は「型形技の道理」を学ぶ
幾年も実践稽古する事、繰返し作業して場数を踏む事をよく言われますが、伝統の技を身に着けるには、事前の準備を心して学び実践修練する事こそ大切です。沢庵禅師の言葉かりれば「事理の両輪を回す」ことといえます。
伝統の事物は、為されるわざは目に見え、手にする道具は切る叩く飛ばすなど単機能で、材料は自然の素材、為すべき環境も自然環境に依拠している等、誰もが身近に感じるモノで構成されます。それで誰もが自分も作ってみたいと制作意欲を抱き、多くの人がひたすら実践の稽古を重ねます。指導される人は組織が認める指導者の地位に依拠して教え学ぶ人の技量が進まねば学ぶ人の姿勢を先ずは口にし「稽古が足らない」と指導します。学ぶ者はひたすら稽古を重ね幾年も修練すれば「偉業を為した先哲の工夫した伝統の型や技を身に付き」「先哲の創作した伝統の事物・姿形が出来る」と想いつつ努力します。
指導される人に伝統の事物の形や姿に拘泥すれば、つまり、技にある筋道「つまり何故その技なのか」を説明する「技の道理を学ぶの心得」が無ければ、技を為す「結果に想いを馳せる」ばかりで「結果に至る筋道が修練を重ねる」意識の欠落が学ぶ人に起こります。
先哲が努力して誰もが継げ為しえる伝統の事物を創作し歴史の試練に耐え、むしろ時代の文化を包括して今日に在るのは、先哲の「型形技」に誰もが納得し行える「道理」があるからと理解されます。偉業を為した先人の「型形技にある道理」を学び自分なりに理解する事は「伝統の技を実践する事前の心の準備」で、実践して顕れる心象や事象の変化、狂い、未知の事に遭遇した時、そこに顕れる事象や己の心象を正しく知覚する本になります。
それ故、実践修練する以前に「心象と事象の総てを予知して創意して具体的準備」することで、「段取り」や「道理にかなう正しき技の道理」を明確にして実践に臨みます。これは一つ伝統の技に限らず人の基本的な行動です。伝統の技にあっては指導者がはじめに伝える事は当然の事といえます。
伝統の事物と伝統の技芸
伝統の型染め作業の経験から思うのは、衣食住に係る伝統の事物の手工業生産には事前の「段取り」の中に「作業中の事象の変化を予知して創造する事物と技を具体的に心に定め」作業が必ずあることです。生産に当たっては事前の準備の正覚をもって製作することが最も大切なことを知ることが出来ます。
製作中に去来するのは「為すべき正しい技が為され心した事物が顕れる瞬間の「事象の変化と心象の変化」を覚知し動作を決断している」かです。事前の準備「段取り」を学ぶ事は、意識が結果に跳んで囚われ、今なすべき心と行動が欠落しない事の自覚を育てます。偉業を為した先人は「技を為す以前の心象と段取など心構え」を診て、実践するヒトの「心の性格、心象を問うている」と学べます。
武道や茶道、能や舞などの芸事は「射」以外の経験がありませんが「型形技」を学ぶはじめに、「正しい技」を身に着ける事を言われ、指導をたびたび「正しい」という言葉を聞くほどに「正しく無いことが沢山有る証明」でしょう。それは「表面の型、形だけ横着して身に着け資格をもらう真似事」です。「正しい」と云われる指導者は常にその「型形技」の道理を精査して考え、その証明は先人の偉業を鏡に自分のワザの正否をただします。勝ち負け肩書は相対的なもので真実の証明にはなりません。そこに「二つの世界の病の根」があります。
中でも、和弓の射には「射法八節」が弓術書となって今日に伝わっています。意識が「アタリ外れの来るべき結果」に跳んで心が欲望に無意識に囚われ今なすべき心が欠落しないよう、先ず「事前に法に適った具体的一技を意識する事で、弓弦を押し広げる動作に全意識を集中している瞬間に、おのれに顕れる心象と事象の変化を直視して自覚と自立を育てる射」が伝統の和弓の技と学べます。段取りも考えずモノ作りをしても不良品を重ねるのと同様、唯、矢を射て当りが多くなっただけでは「射法の有る射」を理解できなと先哲は断じて警鐘をならしています。
伝統の和弓の文化
神事や祭事に今でも伝統の和弓の文化が活きずき、弓箭が無用の時代になっても愛される文化の一つとおもいます。経験した詳細は「射」の項で述べますが、その特徴をかきおろします。
「射」は他の武道と異なり、相手も無く的も定位置で射る距離も環境も同じす。弓も矢も自分に専用の物を用いる「的前射法」があります。
変化するのは自分の心象と肉体の事象、すべては己の内に在ります。
「誰もが実践できる自然の理に従う骨法」に随って矢を射放つ「唯一無二の技」です。それ故、はじめに「射法」とは何かを教えていただき生涯「その道理」を研究し学びつつ実践します。「事理の両輪を回しながら修練」する動作の瞬間に去来するのは、「骨法を学び理解した正しい技が一心に発現される」こと「矢で正確に発せられ正しい結果に至る事」を知覚する心象です。弓を開きつ続ける動作する瞬間の自身の心象と事象が自身に覚知され「矢がはなたれる以前に中り外れの変化の理を覚知するわざ」と先哲は示唆されます。
他の武芸やスポーツに比較して顕著な事は「骨法に随う射法八節の技・動作」は両腕以外目に見て静体です。弓を開きその縮み続ける弾力を利用しますので動作は連続して押し広げる「一つ技の動態」ですべてが完結します。
連続して変化する動態であるが故に射を成しているその時に、弓箭が教える心象「心の正雑、心の正邪」の揺れと事象の動態の変化が己に「直」に知覚されます。
弱い弓で恰好だけ真似て、恣(私)意を弄して弓箭を的狙いに用いては、心は的に跳び意識は恰好に捉われ、「射法」を拓いた先師に児戯と断じています。世阿弥の示した法度がよぎります。此の技は「射法の道理と先哲の実績」が明確な「一技の伝統の技」として今に伝承されています。
他の芸事と異なる事を記して「射」の項に詳細をのべます。
『「段取り」又は「型形技の理」』と『実践』に顕れる心象と事象
「事前の段取り」又は「型形技の道理の究明」に働く予知に能力、変化に応ずる工夫、自己反省と実践の工夫と創意
『実践』に顕れる自己認識と決断、継続する膽力、顕れる「事象と心象」の変化に謙虚に接し素直に応じる包容力の育成
モノを作る「段取り」と、射の技を為す「技の理:ことわりを学び心に定める意識」には共通性がある事をかきおろしてきました。伝統の事物を見ることで私も為したい、真似たいと思う方はおおいと思いますが、想い通りにはいかないは誰もが経験する事です。不具合が生じたその時「技を為す道理や段取りを学び心得」ていれば、不具合を正すべき道が「事前の準備、道理の中に筋道となって明らかに示されている」のが伝統の技です。技の理を知らず事前の段取りにも筋道が無ければ、学ぶ者は彷徨います。寧ろ、指導する姿勢に「型形技の本に在る道理を学ぶ姿勢が常に無い」のであれば、当然、学ぶ人を迷路に誘い込みます。
行動する以前に道理を知って伝統の技を実践する事は「動作する意識に技や結果を詮索する等の心の迷いを去る」鍛練する事になります。「結果は為すべき動作や行為の前にある事」を伝統の技を学ぶことで「直(じか)」に体得します。つまり「伝統の技の先人の実績と示唆」には創造的な工夫や道理があって、その道理は歴史と様々な文化の試練を経て今日に至り、其の道理の「本」を学び「実践して体得すること」はいつの時代にあっても学ぶ人をして創造性と自立するこころの陶冶に寄与します。その核になるのが「実践しているその時に顕れる心象と事象に謙虚に向き合い素直に応ずる意識」でいつの時代どの分野でも云われる事です。さすれば伝統の事物の創造性は「自己の技量や能力の進歩に応じて実現する事物」や「実践する技、為すべき行為」を具体的に構想し、当然、飛躍も起こるといえます。無限の可能性を顕す伝統の技では、指導する人も生涯「筋道に適った正しい技を実践しているか否か謙虚に問い学ぶ人」であることは、先人の偉業と辞世の言葉からして明らかと学べます。
無意識に起こる「横着な心」
伝統の技が生活の必然性から離れると「正しい技を身に付ける事で的確な結果に導かれる伝統の技の実践に拠って養われる、創造的な自己覚醒と自立心」が欠落し、ややもすれば「横着して結果だけ求めようとする現代社会の行過ぎた風潮」に”伝統の技の修練”も押し流されます。何故、でしょうか。伝統の事物や新規なものは生まれたその時から類似品は類似の行為が生まれます。「横着心」が心を捉えれば、「正しくない」ものが蔓延りやすく、又蔓延る仕組みを作ることが必ず起きる事を歴史が示しているからです。何故、正しくないものがはびこりやすいのでしょうか、と問いは続きます。
職業として伝統の技を伝承している方を除けば、現代の「伝統の事物」に係る集団の多くの名目は「経済的な位置つけ」よりは「文化的伝承や精神的充足」におもきをおいて社会的存在をあらわそうとしているように思います。「伝統の様式面」でいえば「現代の新技術の様式」とのコラボレイションによる新規性の提案に於ても「伝統の事物に顕れる心象」が今の時代の道理との整合性を明示せねば奇を衒った表象となります。集団で「伝統」と称する事物に係るとき「伝統の正しい技の本になる道理」に無関心である事に気が付かないため表面の形や奇を衒った様式を生み出す横着心が繰返し繰返し行われつ続ければ、先人の為した偉業とは異なる世界が生まれるます。
何故「横着な心」は生まれるのでしょうか。初めて伝統の技に触れた時には「一生懸命にする」と思うのが初心の心と思います。それでも、早ければ次から無意識のうちに「横着心」が棲みつきます。指摘されてわかることで、むしろ指導される立場の中に潜む問題と思われます。「理」に無関心であれば指導も又道理に無関心となり、そのように指導が幾代にわたって継続されれば、残るのは「道理の無い伝統」と云う「名称」と「似た姿」だけになります。それは形や様式を真似た事物で、伝統と銘打って、序列と権威の傘の中で指導しても学ぶ者は、生涯、真実に辿れません。その原因は勝ち負けを含む「比較差別の意識」を生み出す集団の質と指導者の心の姿勢とおもいます。
経済性や効率などの指標」によって伝統の事物が生活品の場から追い出され、かわって今日、「創造性の発露や自立を促す精神的な充足」などの役割を社会に唱えても、「横着心」が文化から伝統の事物の役割を消滅させ、幾百年の伝統の事物は歴史の遺物になってしまうのでしょうか。
創意工夫をして偉業をなした先哲は伝統の技の修練に「横着心」が起こることは「わかったていた」のでしょう。それ故「正しい技と何か考えなさい、その本の道理を探求しなさい」と云われ、同時に「それを実践して実証しなさい」と指摘していると学べます。伝統の事物と先哲の示唆を座右の銘にして日々学び、日々鍛練する心に、指導する者と学ぶ者に差などありません。先哲の示唆から見れば、生涯、学ぶ事が宿命であることは先哲の辞世の話から知る処です。それ故、繰り返して云われる事になります。
伝統の事物と技が正しく伝承されるには、伝統の”かた かた ちわざ”の「本」にある「自然の理」を学び、先人の偉業と示唆を正しく理解する事に努めながら、技を実践する己の姿勢を問いつつ修練することになります。それは自分の意識と心を問うことで「自立の道の門」を意識して叩く事になります。このHPが取り上げる「射」で云えば「先哲が用いた普通の弓の強さを普段に用いる」挑戦がその一つで在り、それによって「射の真理」を究理する事であり、染色用孔版型紙でいえば現代に則した用法の創出への挑戦であります
「心を正しくする事」
伝統の技を学ぶはじめに教えられます。
伝統の技を「正しく修練する」教えを受ければ、良導の師は「小児の様な気持ちで純真に為すべき」との示唆に何故と問いに意識はすすみます。顧みれば、一つ、伝統に技芸にとどまらず「かたかたちわざ」のあるものすべてに云えると学べます。誰もが無意識の世界にある「小児の様な純真気持ち」とは何でしょうか。生を受ける前、生を受けた時、この世界にいる今を意識して問いはすすみます。
心を澄ませば、伝統には利益や名声や勝負け等の比較差別の欲望世界が身の回りにはびこっている事を知ります。無自覚にして横着な心が棲みつけば、表面的な形だけを真似て”伝統と銘打った姿・かたち”を促成して演出します。一見、伝統のように見える事物も、伝統の事物とは全く別の事物に取り巻かれている事に、常に意識を向けねば、伝統の礎を築いた先人の思いとは別の闇にいる己を見ます。
肩書を背景に「正しい」と意識すれば、技に向き合う心の「純真さ」等に無頓着になり「正しい技とは何か」を問い「真」を問うこともしません。先師の築いた技の事実を顕現する努力も再現せずに「正しい技」を唱えても、「正しい技」とは何か自問することには無頓着で比較差別の結果だけに執着します。「正しわざ」を為すと決めた初心からの向上心を生涯続ける意志など霧散します。「正しき技」を己に問いつ続ける先人の姿勢とは異なります。
伝統の文化、事物に関心が高まりとは反比例して、外見は似ていても内実は伝統とは全く異なる事物が蔓延っては、学ぶ者は勿論、教える人も誰れも真実はわからなく成ります、それ故、「正しい」とは何か己に問う事を、技を学ぶはじめに示唆されます。
学ぶ者の心は、伝統の技を指導する姿勢によって「自己覚醒」とは全く反対の世界も生まれます。それ故、伝統の「かたかたちわざ」が今日に息づくためにはその”わざ”の伝承のあり方が大事です。
指導の方法、指導者が「正しい技」に取り組む意識・姿勢が、常に厳しく自他に問われる事はどの世界でも同じですが、特に、職業としての伝統を伝える方々とは別に伝統を伝える組織や集団が多々ある事が現代の姿に問われる事といえます。
経済性で社会から消滅し、文化的必然性で伝統の事物が今に活きる現代社会では指導される方が「伝統の偉業」を「実践してそのことわりを証明」することで「正しいわざを常に問い続ける姿勢」が最も大切なことである事は自明です。
何故なら「型形技」が何故その「型形技」なのか、その真実を理解し無くとも外見だけ真似て似たような事物が蔓延りやすいのが伝統の技であるからです。中味の無い弱弱しい真似事の稽古を世阿弥は厳しく述べています。
免許をもらって指導者ともなれば「指導」の役割を与えられれば「正しい道」に進んでいると疑わないのでしょう。偉業を為した先人の事実を探求する事も心に据えた稽古も無く、むしろ、殆どが無関心でいると先哲は云われます。意識を180ど変えねば「正しい」ことには進みません。伝統の事物を創意工夫した先人の示唆にこたえるには「何故その型・形・技なのか」を自他に謙虚に問い「正しい技」を自問して実践し、問われて応える指導とは権威を離れて学ぶ人に謙虚に応える事と理解できます。伝統の技が生活や文化の一線から退く時代の変遷に在って、形式と権威を身に纏い、「名」を語り「形」だけ指導する「失」に無関心なる心の病を、伝統の技が時代の変遷に応じて実践で教導された偉人は皆、その「失」を書に記し、警鐘を鳴らしています。
意識を変える事:欲求と欲望の狭間の心
「正しい技」の意識が明瞭になるに連れて「意識を変えることの難しさ」知ります。
「むずかしさ」の迷路を彷徨う内に「正しわざとは何か」を問う事に無関心になります。
何故でしょうか
やがて無関心は、伝統の技を為す事に無意識にして無頓着になり、結果に執着して技の習得に横着になります
結果だけが大事で手段は全く無視します。結果に「箔」が付けば拡散します
一体「正しい技」はどこへ行ったのかを常に問わねば「伝統は逝きし世の面影」になると先人はいわれます。
伝統の技を身につけたいと志せば、"伝統”と銘打った言葉や事物の真偽を見極める能力を培わねばなりません。それ故、伝統の技を学ぶ方々を、どう導くかが指導する方の課題になります。先哲が「師を選びなさい」と云われる由縁でしょう。
「弓は身に随い、身は意に随うべし、
意は業に志すところ也、
意と云う根本は何ぞ」
今から400年も前、竹林派弓術の祖、竹林坊如成師が云われました(※1)。
「弓」を「道具」に置き換えて考えれば、あらゆる技・行動に云える事です。「意の根本は一心也」と祖師は云われます。
「技は意識の持ち方で、実践する中味は180度変わります」。それ故、「意識を変えなさい」と良導の先生は云われます。技を身につけようと心に決めれば、指導される方から横着せずに「正しい技」を身に着ける「正しい心」に向合いなさいと言われます。勝ち負けや上下の資格、名誉にこだわる指導者はそれを躾等と言って「正しいこと」を捻じ曲げます。
ひたすら「正しい技」を希求して伝統の技を生涯実践する刹那に、「欲求」と勝ちたい、うまい下手など比較差別などの「欲望」との狭間を行きかう「心」を映し出し、その「正雑」・「正邪」の心象が照らし出されます。伝統の事物が現代に生きる由縁は、伝統の「かたかたちわざの真理」を建て実践した先人の偉業に照らして「正しい伝統の技」を実践し、実践するその時に顕れる「正雑・正邪」の心象と素直に向合い謙虚に己に問えば、日々の実践や行動に顕れる心象を自覚して捉われず自立して創造的な心が感得できる事と学べます。
今、80歳に近づき学ぶ立場から半世紀の射を俯瞰すれば、「意識を変える難しさ」を日々感じ稽古修練しています。他方、肩書等箔を以て伝統の技を伝える方は指導者として認められた組織の権威に依拠して先人の業ととは異なっていても身につけた技を疑うことなど無く先哲の真理との矛盾に触れないか、新しい話を持ち出します。権威や勝ち負けに依拠すれば他力の中に自己が埋没し、その姿は伝統とは似ても似つかない別物になるのは時代が示すところと自戒します。射の道にあって言えば生涯「正しき技」を純真に求めて、その姿を見て見つめて今見極めねばなりません。染色の道に在っては伝統の技に適う現代に活きる新しき事物の創出出来る楽しさに感謝しています。