一つの手の内の事
竹林派弓術書の意訳を試みました。浅学の身には一筋には解釈できません。本書と深く関係しているので、是非、本書全文を読む事をお願いします。このHPの各テーマで竹林派弓術書、他先哲の記述を引用していますが、必ず、全文を読み俯瞰せねば部分の記載は理解は難しいし、反対に、先哲の「一つの言詮に全ての真実が記載されている」と今は思います。ここでは「中を窺う」という「窺う」という言詮の解釈によって射の全てが変わってしまいます。以下青字に恣意を弄して意訳を試みました。
引き続いて引用文を記載します。射手それぞれの解釈がありその事を弓友と共に議論し、弓の強さで強弱共に実践で稽古し、相互に看取りながら稽古をし、先哲の示唆する射が体得されるか否か、そこに齟齬・正雑、いい加減・正邪が無いかを射行中に知る努力が私の射の風景です。
意訳
第三
強弱の事は此の中学集では本書第一巻剛弱の事抱惜の事に云われます様に射形に限りて話をすすめます。剛弱は万事にある義也の万事とは、本書第二巻第四巻にいかほどにも剛き稽古しなさいと「剛無理」の口伝に在る様に射を稽古する意識を述べおられ、射法に在る全体の意識を念頭に考える事が正しい基本:義です。
射形の万事に強弱と云う事は、「中・アタリ」を学ぶこの「中学集」では、本書一巻に「弓の本地の中・アタリ」は射形の万事、つまり五重の十文字、ヒトの約260関節の総ての「剛弱」が中りに関係します、つまり本書で「骨法」に適った射手の姿全体の剛弱の理を知り、理解してください。それで、弓手にあり馬手に有り手の内にあり会にあり、それだけでなく惣体にあるのですから 内に中りを窺う肝要は、射手の技量と手にする弓の強弱によって感じ方、察知する感じ、窺う意識の正雑が異なります。それで弓にもたれぬ様に云う事:つまり自分の骨力の正雑を糾す弓を強とす、弱は筋力で弓を引きますので骨力を知覚しませんそれで、弱は骨法不行を云うなり
弓を射る姿を射形と云いますが、この竹林派弓術書の「序」に述べられていますように「強い処を柔らげ、弱い処に強みの付くように直せば自然に能き射形になります」。是は強い処を弱くする、弱い処を強くするなど筋肉の事では無く、骨力を「直」に育てる意味です。本書一巻 「剛弱の事抱惜の事」に述べられていますように、この強弱(?剛弱の事)は射手の射形全体にいえる事です。本多師が言われんます様に「中を行射中に覚知する、そっと察知する」:中を窺うには、弱弓で筋力でぶら下がって引いては、筋力が働いて骨に食い違い、関節の歪みなど「骨力」の異変を感じません。それで、弓にもたれぬ様に云う事を強とす 弱は骨法不行と注意しています。自分の「骨力にあった弓を相応の弓と云い」的中の大切な要件です。それ故、弱い弓では骨の歪みもわからないので「骨法」など知る由もありません。此第三の最後に述べますように強い弓、弱い弓共に稽古して相応の弓を持って初めて自師見覚の稽古ができますよ。
中を窺う、「窺う」を会に入って的を探したり、大三はこうすれば中ルかなと探りながら引いたり、矢束をここまでにすれば中るかななど窺うては、竹林派弓術書の本書の述べる事とは全く異なることなります。そのように詮索する事は、射法の在る射ではありません。勿論、骨法など全く理解していない人です。竹林派弓術は詮索する意識を去る事が基本です。そのための骨法です。骨法の道理がわかれば「中り外れが何故なのかそのことわりが意識されています」ので詮索は不要です。何故なら、本書第一巻の最後に「懸合の事」に「射形総体の釣合を自ら考えて 我射前に いか様の失あるぞと さとる事。弓を師と為すとは自らを師とすると云う心也 自師見覚の義也或は射放って弦の拍子、矢色にて自らの善悪を知れ」とあります。つまり射行中に「中り外れ、失の出どころと技の正雑、心の正邪」を自覚する事と理解できます。弓を能く修練するば例えば、射行中に弓手の押しが弱ければ弓に押し返されます、それは適正な弓の力であればすぐに知覚できます。弓が強すぎるか、手の内が骨法にそぐわ無いか、肩が浮いているか手首が捻じれているかなど「骨法」の直が欠けては弱い弓でも押し返されます。尤ももたるれば手先違うもの也と云われるように弱い弓で弓を握りしたり、手首で捻り込んだり、切り下げたりしても中りに狂いがでます。
拳差し出で左右上下無く弓の握りの角へ大指の骨の押当るが肝要也 とは本書一巻「手の内の事」に在る様に、手首を曲げずに弓の握り弝に「直」に弓を押し親指の根の骨が内竹の右角に押しあたっている事が大事という事です。
左手の内は、大指(親指)の裏(腹)を中指の爪の半分へ掛け押します、弓構えで最初に弓と左手の内は調えられますが、中指の指先の腹は弓の握り革の所へ、親指の腹と中指の爪が重なって中指の指先の腹を接触させます。そのままの状態で打起から引き分け会まで手の内は全く変えません、自然に手の内は調います。特に打起の頂点から引分けに入るに当たって、両肩根から両上腕の骨の向きに弓・弦を上方に押開き始め、矢筋に入る様に押し開きますが、弓構えで調えた手の内の形を一切変えずに、特に親指は何もせず、軽く手の内全体が弓に触れた状態であれば、親指の腹と中指の爪先の接触点をとおして、中指の指先に腹から弓の外より自然に握り押し詰むる也、されば握り詰むる也、つまり締まってくるのですよ。されば握り詰めずして大指中指離れず 弓も堅く握らずして又握革にむつくりと当り 引く時弓の格好よく引いて 自然 弓力程に会強く成るものと知るべし。 弓を握り詰めたる時は弓の力を握り弱むと知るべし。つまり、中指の指先の腹を弓の握り革に付け親指の腹を中指の爪の半分にかけた状態で打ち起こしの始めから離れ迄一切手の内は変えずにいれば自然に手の内は会で理想的な手の内になります。竹林の書に弓の力をききなさいという事です。 之を押手軽き手の内と知るべし されば離れは冴えてはずみ能く 弓返りも握りに返るもの也 ひとつ手の内とは是也 弓返りの事は大指の付け根をきりきりと押し廻わし 中指の腹の処の皮を外より内へまくり込むよう(つまり日本の弓は入きになって弓の力を最大限に用いていますが、その入りが会に向かて強く成りますから中指の指先は引っ張られ:マクラレ:ます。之を指先に感じれば弓が離れで自然に基に返ります。それで中指先と親指先が密着した親指付け根(いわゆる角見)が押し返されない様に審固に対応する力を用います。阿波師が両手の内だけ力を使うとヘリゲル師に指導された事のようにする事肝要也 されば求めて返しもせずつまり弓回しなどせずとも弓返りはおこり、弓と一点で接している手の内は矢筋に沿って的心に入っているので、目中して真中へつくもの也・・・(略)・・・
されども中りの事には弓の強弱を専に心得
弓の強弱と云うは品々あり 是は中りに余力の弓を好むは不覚を招く所也 力に相応の弓を用ふる事上手の至る所なり
中りの事は主に骨法にて強弱の弓を用ふることなり 強弱ともに鍛練すること肝要也 たとえ弱弓なりとも・・・・(以下 略)