”わざ”と”姿・かたち”
人間が持っている形状変化しない体内の道具:骨は他の器官や臓器、関節と筋、筋膜、筋肉、体液と呼気と皮膚によって姿が顕れます。
骨は長さが変わらず、骨と関節から成る骨格の自在性と形態的な限定性は私たちの姿・形を特徴付けます。骨格の可動限界性と自在性から自然発生的に繰返し再現性のある動作が生まれます。そこに”意識”と云う道具が付随して、それが集団の認識を誘発して共通性を意識して「型」が認識して意識すると考えることができます。道具の意識”が社会を形成すれば、そこに型形のワザの関係が明確にされ文化的な「型」となって、事物とともに文化が意識の中に継承されると考えられます。
そこに生を受けた姿は本能に直結する無意識の世界にから、当初から自然界に在りつつも、意識によって形成された環境や文化の中で、無意識の中にある型・形の形成し、又は形成され自他を認識して現れた姿の意識される一部を認識している云えるでしょう。
技と心
「型」を用いて「形」が顕れるには「技」が必要です。技には技を用いる意志や技を働らかせている又は働いている事を知覚する意識と知覚しない無意識とそれを包括する「心」が伴います。
科学的な思考をもつ現代の人は、其の技の外見の姿・形を言葉や数、記号、図で表し・法則を定め更に時系列を加えて変化する様子を著します。技を実践する以前に何故その技で無ければならその技の内実、何故其法則なのか技の真理を学ばネバば、外見の模倣で終わります。
技を用いて変化する様子や結果に共通性を求める時、同じ技を繰返したと意識しても、、自身の心に問いつつ”変化している時の姿・形や結果の姿や効果を見つめれば、同じ様にも異なる様に感じられる不安定な意識の中にいる事に常に気が付き、その不安定さは意識されない自身心の内にあるの無意識につながる知覚を感じるのでしょう。それは技の真理を探求する意識の深さにあります。
その意識が、何時でも広く自在に心の中に展開されれば自身の世界(自立観)からその事実を素直に認識するし、技の真理を学ばずに”結果の善し悪し、技の正雑”を他力に求めて次の行動を探れば、比較差別の相対の世界に心はとどまるのでしょう。
技の真理を学ぶ意識は何かと問えば、その奥に「生」に根ざした無意識の「心」の無限の働きが深く付き添っている本能からの欲求の様に感じます。それ故、型形技を用いても、何故か、まったく新しい経験、不可思議を知覚することが起こるのでしょう。型・形ではとらえきれない事、型・形の先にある真の認識、または自覚、または可能性を呼び起こすのでしょう。伝統の型や技でいえば、何故、そのような
不可能なことが起こるのか、なぜ、そのような素晴らしい事物が生まれるのかと云う事実でしょう。技を使う者も見る者もが予期されない表象に接し、無限の可能性を秘める無意識の世界につうずる意識の扉を見出す様に想像されます。
”こころ、意識と無意識”
このHPテーマ:伝統の「型」を例に上げれば、”正確に技を用いて動作、又は理念に沿って意識して行動”しても、現れる姿・形の結果に正確な再現性を認識出来無いない状況は何故起こるのでしょうか。長い修練を積む経験の中では、無意識的にも感じることが、たびたび起こる事と思います。其の知覚は”かたかたちわざ”の中心に在る”心”に目を向けさせ、”その心とは何か”を問うことになります。
「心」は先天的な本能と結びついて”かた=同質性”を意識し、繰返し再現されて後天的な文化などの新たな「型」を生み、わたしたちの行動にに複雑に作用します。この「心」に意識を向けねば「かたかたちわざ」は見極められないでしょう。繰返し同じ様子を意識するのは私達が「変化」を認識するからでしょう。全てが変化し認識する自分も変化する状況に「型」をおいて、一体、今、この瞬間の「動作や行動(技)」の「正確な自覚(結果)」は如何に生まれるのでしょうか。
そもそも、自他を隔てて認識すること事態に、ただただ物事の周りをぐるぐると回るだけで相対的な認識の比較の結果でしかありません。功利的に科学的知識とコンピューター技術を用いて精緻を求めても、そのことは際限 なく心に棲む欲望の拡大に続き続き、やがてくたびれて行くのでしょう。それは歴史が示しています。
一方、真理を究める欲求に目覚めれば、欲望から遠ざかり、心は純真さを増し、比較する相対の世界・自他を乖離する二律背反の科学的な限定認識の限界を意識して、超えて、意識無意識の垣根を払い、意識を持たない生を受け、世にいで言葉も道具もない無意識生の世界の自己本来の姿に行く道を先哲は示唆しているのでしょう。長い歴史と風土に培われた伝統の型・形・技、仕事や身近な生活の型・形・技を学び実践すると、行動する今の姿を見つめさせます。
”技の中心に来る心”
「正しい技」が何か常に自問して具体的な真の技を意識して「技を実践する心」を「正」とし、結果や勝にとらわれ、見られる外観をなぞり、正しい技の探求に目をそむけ、今なすべき事を無視した横着心を「雑」とし、過程や手段を無視して 結果を欲望する心を「邪心」とします。
「心」には意識から無意識の世界に誘う力に拠って、生の欲求に依拠する自立心と、際限無く人と比べる、他力に依存した比較差別の功利を競うの欲望の世界に迷い込む病の心があります。特に技の指導においては、指導者が無意識に欲望の世界に迷い込ませる事を、かたかたちわざを発明し偉業を示した先哲は常に警鐘を鳴らしています。
技と心の乖離
西欧の科学思想の生産技術が入る明治以前の手工業生産技術には自然の理に即した正しい技を学び、横着せずに、正しい技を一つ一つ積み重ね、継続する意志によって意図する結果が得る事を、技を用いる正しい精神が醸成され、文化に蓄積されて来たと認識できます。
正確性の認識と心の鍛錬
正確性について云えば、伝統の技の修練の中には使う素材のバラツキ、技を実施する環境の変動等条件の定まりにくい事物の変化を事前に予知しその段取りと全体を俯瞰する能力を養い、実践に おいては変化を正確に予知し、正確に技を為す決断力と膽力を養います。その結果、技を加える自分の心を問い、見つめる事で変化に柔軟に対応し、無理無駄のない合理的な技は人モノ道具を無駄無、生産品は正確に再現さます。
すこぶる正確で再現性のある手工業生産技術で文化の精神と生活の質を潤し続けて来たと云えます。その伝統 の技の修練においての正雑が問われ、正邪もまた見据えられるので、現れた姿形の内実に人の心が映し出され、心と技の乖離は常に評価を受けます。