漢和辞典、国語辞典、古語辞典、大言海 などの辞典類に「体配」等の言葉見当たらない。

諸流の「射礼」については資料からある程度調べる事が視るが、印西岡山系譜が「他流の射礼を当流では体配」といと述べているので、印西岡山系譜の造語なのかは、印西派が始祖の弓術書の存在が不明であるの明確ではない。印西岡山系譜のこの資料には用語は射学正宗の文言を多用しているが「骨法」の理路、理念は浅学の私には見られない。その上、射学正宗の骨法の離れの技「彀」「匀」、つまり胸の中筋から離れる基本は初心の技としている。この流派の人の射を見ると会から離れで押し手の手首を著しく曲げる射を見るが、この資料に掲げる残身の写真もそれを明確に示している。他の文言も骨法の理論と関係が不明な技が多々あり、竹林が示した「骨法」の射とは異なるとみられる。「日置当流」といって「正当性」をことさら強調されているように浅学の私には見える。

教本にはある「体配」とは何か。

宇野師は現代弓道の修練の眼目の第二に「礼に則した体配」が記述されている。ということは「礼に則さない「体配」がある」ことを示唆している。それは何か。「礼」とは何かを明確にせねば不明となるので、「教本の「射礼」を研究する事」になる。

教本の「体配」は「空間を動く足に動作の技」であり、「射」は「空間を動かない両脚が大地と一体となって、弓箭の弓力を働かす技」であるので基本的に技の視点は異なり「射の八節の連続性」と「礼における動作の連続性」は「精神性の一体」に止揚されなば理解しにくいと思われるのでこの観点には触れない。

技の観点から言えば、射礼全般の動作も「骨法」に則して理解するのが良いと思う。その第一は動作と動作の返還点の「間」を骨法の連続性に習って「研究すれば」「間」に顕れる静態の中に「竹林派の骨法の定義が活かされる」。例えば執り弓の姿勢の第一は、「項を伸ばし大地に足が密着する事で関節の直が形成された縦横十文字の規矩に適う執り弓の姿勢が生まれる」。礼の動作をそこから始まり、歩く動作も最初の腰の発動も『執り弓の骨法に適う縦欲十文字の静態の中から「当然の機」に随って始まる。』