武禅・無影心月射儀・顕正射道儀
阿波見鳳師と神永師と吉田能安師が武禅道場での稽古で知られる梅路見鸞師の理念を恣意を弄して取上げます。
武禅・無影心月射儀・顕正射道儀
阿波見鳳師と神永師と吉田能安師が武禅道場での稽古で知られる梅路見鸞師の理念を恣意を弄して取上げます。
顕正射道儀訓讀
夫れ弓道は、直心開発、円通自在の大道妙用を顕現するの唯一無二の真実道なり。是の故に、神之を尊び、仏亦之を実如と名づけ、以て弓道一如、弓禅一味と説くなり。念々弓箭を忘れ、刹々射定中に入り、弓箭を失い、射身を没し、気息に関わらず、満を張りて、持せず、発せざれば、本有の心と雑妄と自ら不二と化し、上下四方、萃然として一隙なく、浄心清体の我一枚となり、彼来我到って、一切自然、明光として我と相融合し、念々の行々、無限の大に到り、無量の底に及び、十方大千に充満するに至って、還って我に帰す。乾坤一枚なり。何れにか彼我あらん。何れにか然らざらん。発、生じて天地を尽くし、なお悉くを中に存す。而も光風霽月玲瓏たるの我。此の間、一息の停続なく、出づるは発。入るは満。乃ち是れ射の大円成相なり。
射は是れ八識の根底を直通し、正響の融通を本とす。故に不問不思者をして、八識の明を與へ、識我の静を得さしめ、度を決して散逸を防ぎ、停息を通じ、迷処を断じ、気縛を解き、根気を通続し、智用を円にし、統我の一を得さしめ、以て本有の性に到達し、各自本来の正行を覚らしむ。正行現前する処、初めて我が本有の賢愚を知る。賢は自知す、是れ覺ねん覚然無聖、聖我不二と。愚は自知す、是煩悩具足の凡夫と。乃ち是れ射の知性なり。這裏に到って、行動自ら二分するあり。賢は是れ自力識射の本来空の悟道なり。愚は是れ他力托射の有無相通の安心なり。此の二行をして常往ならしむるあれば、則ち富貴も淫する能わず、威武も屈する能わず、恩愛も乱すこと能わず。大丈夫の気魂、自ら露現し、理情明白、上は真忠を覚り、下は恩愛の情見を破し、而して本有の天命に遵い、易々として不惜身命の実をあげ、八面敵中、着々出身の活路を開き、人事万般をして相差うある無からしむるを得ん。師家、宜しく如上の実を修し、而して範を垂れ、義を示し、大用現前、規則なきを現じ、毫末も相差う所なく、自家履践処を以て直ち道となし、將て学人をして射悟の妙慧を修せしめずんば、いずくんぞ能く至道を 弁ぜん。
若し其れ射悟の事を得んと欲すれば、須らく射の十失を断是ぜざるべからず。十失とは、一に曰く遅速にかかわれば則ち身力を恃み、以て当然の機を失す。是れ弓箭に奪わるるなり。二に曰く、模索に着すれば、則ち雑妄、本心を滅し、我見に撞着す。三に曰く、言詮に着すれば則ち理想に堕し、以て超境を観ることなし。四に曰く、弓箭にかかわるは則ち技の端。五に曰く、結果を庶うは時に偏執を免れず。六に曰く、巧拙に拘われば、則ち可否に縛せらる。七に曰く、他との比を看るは、真実の修業に非ず。八に曰く、内省を事とすれば、則ち未だ主観の殻を脱せざる者悉く雑妄の縛うけ、然らざるも亦模索に着して後箭を期し成ずる能わず。九に曰く独学を以て享楽となすは向上の死滅なり。十に曰く、気分を娯むは病者のみ。 この十者は以て射悟正修の便とならず。宜しく急に断滅して射の初一念を継続すべし。十失想起の時、宜しくその去来に任せてかかわらず、本有真如の月を仰ぎ、絶命一射に自性を照顕し、以て射裏見性の無上果を証得すべし。
蓋し射様に至っては、流派各々異ありと雖も、而も真実修行底に入っては、則ち一道に合流し、聊かも異るあらんや。即ち適者を便とし以て射を行ずべきなり。古来先徳の論ずる所、皆射形射様以て技の端となし、専ら道の成否を重んじ、其の弁じ易きを執り、其の碍あるを棄てつるのみ。論の生ずる所以とならず。ただ其れ未だ至らざるもの、その可否を論争するか。
射人一たび技脱射脱の悟境に在っては、千射万箭、失なく過なきに幾かかるべく、あに昨得今失の迷射のよくあるべき所ならんや。月を閲し、歳を累ねて益々射境円成、力量相応の弓箭を持し、心印自在の射を行じ、活殺自在の箭を発す。面々相接すれば、則ち見ずと雖も他射の失を指し、聞かずと雖も他の道境をテキす(あばく)。無為射脱の玄妙境、平常の中に現前せん。
ねがわくは、参学の射人、射道の真を了得して射行怠りなく、見性射悟の妙慧を修し、以て護国大道の実を挙げられんことを。
昭和九年八月 梅路見鸞