矢束一杯の意味
矢束一杯の意味
本多利実師「矢束一杯」の事
射の理が自然の理に則した「唯一無二」の射であれば
一事が万事、「矢束一杯」の真意を知る事はその要です。
「骨法の理」を明確にして最も厳密に取り上げているのは高穎師、竹林坊師、本多師、梅路師と思います。しかし「引かぬ矢束」の言葉を本多師と梅路師の著作には見いだせておりません。その事は「本多利実師を基軸に射の理を探索」項に記載します。
矢束一杯を取らずにアテル、矢束を取らず右肘が肩線ほどと指導される等々、現在も良く見ますが昔から事といえます。
生弓会編「本多流弓術書」、利實翁射術小論集:「中外論」ヨリ
「弓は真の修行をしては中らぬとか、矢束を取れば中らぬなど申すは何れも 間違った話で御座います。初歩の人には此道理が十分に会得されないので誠に困ります。」
”初歩の人には”と断りを入れて、「その道理」つまり「矢束一杯」が「骨法に因る射法射技」の必須の技である事を理解してもらえないと記述されています。
今では、初心の人だけでないといえます。手繰りも少ないのに引きすぎと戻させては射の理など霧散します。この問題の多くは指導する側にあるのでしょう。それは、本多師が”今の人骨法を知らず”と述べ、「流派の指導者は射法の根本を深く学ばず、姿勢だけを教えると」を断じている事から判断できます。別項「弓道講義録」(本多利実師著)にその原因が記載されています。
「矢束一杯」はもう一つ考えねば観点があります。それは『矢を出来る限り遠くに飛ばす「弓箭を活用する業」矢業に真実がある』と竹林坊如成師が述べる観点の「矢束一杯」です。竹林坊師が弓の本地は「中と矢早」あると述べ、「十五間の的前」射法を述べておりますから、上記の本多師の警鐘は的前での「矢束一杯」を説いているいえます。「矢業」が示す真実には弓の強弱が関り、「中・矢早」が示す真実には正確な再現性が問われます。此の射の理の要に「矢束一杯」の意味があると学べます。
本多利実師、射学正宗高穎師の「素引き」にその真意が記載され、尾州竹林派弓術書の矢束に係る記載に「矢束一杯」の技の内容が示されています、ここでは、竹林の以下の記載をあげます。「素引」の項も参照願います。教本には「矢束一杯」右拳が右肩先に着くと記し祝部師の大離れ絵(※)に表われています。高木師は「真の矢束」を記しています。
生弓会編:尾州竹林弓術書:本書一巻:矢束の事」
「先条に三つの矢束と註したるばかり也 真実は二つならでは無きに修学の位に知るぞ 引かぬ矢束は長し骨相筋道に附くぞ 引く矢束は五部の詰めに附くぞ短きぞ ただ矢束は世間に能く口伝せよ 其の如く説きても自師の位に稽古のにて 能く究めてよし
引かぬ矢束は長し と云うは 修学至って極る矢束也 惣体に満ちて不足なき所をさして長しといへり 骨相筋道に附くぞ と云うは 少しも邪(ヨコシマ)に引くにあらず骨相筋道に随いて引ける故に骨相筋道に附くと云う也引く矢束は五部の詰めにあり と云うは 未だ至らざるの矢束也 我が力を以って引く故に引く矢束と云う也 初心の射手などには身に余る矢程引かせて教うる事也是 引く矢束を用うる所也 能く口伝せよと也 五部の詰めに附く と云うは 引く矢束を用うるには 五部の詰めを以って引かせよと也短きぞ と云うは 未だ至らざる射手は 骨相延びずせまりて今引く所の矢束よりも 骨は短きぞと云う心也」とあります。
「意識、精神状態で無く」、矢束と云う「数値概念」に「骨という物体の具体的状態」で述べています。矢束を抽象化して意識することないので、確と理解できます。竹林派弓術書にはは「真の矢束」はありません。それは次に記します
「引かぬ矢束は長し」に顕われます。特に「少しも邪(ヨコシマ)に引くにあらず」は縦横に伸びるだけで矢束はどうだ、離れはどうだ等と考える「邪な詮索」をしないで、「骨相筋道」に従って、つまり、ただただ伸びる事に専念する事を言われていると理解できます。
(※)教本三巻祝部師の図絵
教本一巻に「矢束一杯」は「右拳が右肩先」とありますが、実際には、この大離れと子離れの範囲があります。しかし祝部師の大離れの位置が、骨法の理に適う矢束一杯をしめしています。教本一巻に「射法八節の解説」に詳しい内容は二巻、三巻の「射技篇」参照にありますので祝部師の図絵を考えるべきと思います。祝部師は前提として手繰りの無い事としています。巻末の図を参照する事はどこにも記述がありません。理由はありませんが、四巻中野範士が記したと図絵が中野師の弓術書に記載されいます。この図絵は小離れの位置にあります。
梅路見鸞師昭和九年「武禅第一巻第三号 説苑(二)我が家の射道(二)射法」ヨリ
「…しかるに、今日の諸大家の中には、万巻の伝書は反古に等し とか 古人は実に幼稚であった とか 古人の研究もそこ迄行っている等と、伝書無用を力説れ、自家作製の大旆を押立てられているが、我等は、弓に矢をつがえて正しく引く底に到り得て、初めて古人の射形射法が、射悟妙諦の深底より一糸乱れざるの微妙な連絡を保ち、微塵も異法異形無く、深処へ深処へ、正処へ正処へと前法を捨てしめては進めている。…」
本多利実師著 明治期「弓術講義録」大日本弓術会、 大正期「弓道講義」大日本弓道会 の序に想う事
価値観が変容する明治の黎明期「射が既に表面的な恰好だけで、射では無くなっている時代」と断じ、多様化していく近代社会の価値観の中で、弓を学びたいと思う人の気持ちとこれから先の社会を予見されています。弓が全く無用の近代では、射の過去の歴史的事実から検見すれば「指導する方々が射法射技の根本を調べて究明することなど無く、表面的な射形ばかり教え」、「学ぶ側も段や称号のさえ得られれば良いとする」風潮は、益々、弓の世界を覆い、弓道と云いながら中味は無い、恰好ばかりの似非の姿が蔓延る事を予見されたと愚推します。
当てたいと云う子供の遊び(児戯)から、「弓道として「法」に添って射法八節に適う射で「技即道」を説く人の道を目的に説く弓道」など少しも知らず、武道で美しい、柔道や剣道の様に体力も普通で良い等動機はいろいろな初心の方に、「矢束一杯に引く」事が道理である事をなかなか理解していただけないと学べます。また射法八節に従って指導する側も、「矢束一杯」の言葉だけ知っていても伝えない事、又は矢束の理など知らないので伝えられ無い事、若しくは矢束一杯に引く事を否定する事、自らも「矢束一杯」の射を目標に実践し無いのであれば「初心者が理解し無いので困ります」と云われる本多師の嘆き以前の問題といえます。「弓術講義録」から「弓道講義」に進むのは本多利実師没後であれば「技即道」の理を実践で示すことになります。
「真似してあてて、結果だけを得たいという欲」を助長する何か根深い原因が弓にはあるのでしょう。
武士の時代と雖も、15間先に矢が届き、紙の的を抜ける事実を繰返して得られれば、それ以上の技の究明などしなかった事実を本多利実師の話で知りました。明治に入って社会の価値が大きく変わり、弓が無用の時代になって、弓箭を自分の価値観で扱える社会では、猶更、「弓を扱う射法の道理」を学ぶ意味と稽古する姿勢は伝え難いと理解できます。
本多師の経験と時代を直視した実践と千をこえる弓術書の究明から出された警告は、現代に重要な警告と受け取らねば成らず、特に指導される人々に向けられた警告と理解できます。それは射形を綺麗にしてアタレバ済むという、表面的な真似の世界の到来を意味しているのでしょう。一見して射のように見えて「法」の在る「射」では無い世界と梅路見鸞師の予言する世界なのでしょう。理念とは程遠い状態の去来を予感しているのでしょう。その事は竹林坊師「本書二巻」、高穎師「射学正宗弁惑門」、本多師「射法正規中巻」に学べます。
「法」を持つ射の理念に内在する癌の様な”負の一面”であり、其の事を、先哲四師は「射の病」として常に繰り返し、繰り返し弓術書に著し、警鐘を鳴らしていると学べます。三師は「病」には適切な強さの弓20数㎏を念頭に射の理を学び、「剛・つよきことを心して学ぶ意志」を述べ、梅路師は人の道を説く禅道に「弓箭」を用い「その具体的な道法を示し実践された」と理解しました。
矢束一杯の課題では、指導する方が「引き過ぎ」と云って矢束一杯に引かせない稽古をよく見ます。引かない無い稽古を数年も繰返し、調子も付き”当り”も続けば、右肘は両肩の線より後方に向かうこと無く、射当てる癖となります。
高穎師が最も指摘する所です。それで、筋力を主体に操作できる弱い弓で、射形が見栄えよく当て、それで箔が付けば「誰もが射こなせる六分数厘程度の弓力を以て”矢束一杯に引いて”骨法は何か”等と極めんと修練する」事など面倒な事は考えもしないのでしょう。それでも「正しい射」をしていると競射に勝ち、昇段もすれば「技即道」を主張されます。
さすれば、熟達者と云われて「正しい射」を問われても、矢束一杯に引く事が射法の基本である事など、教え伝えることも無いでしょう。指導者が姿、形ばかりを教え、骨法の道理を教えないという本多師の警鐘の顕れでしょう。十数kgの弓力が主体と云われる現代は、かえって「矢束一杯引こうともがき苦しみ、射形が調わず射を崩す射手」を見て眉をしかめ、六分数厘の弓など引かせない指導も、たびたび見られるところです。
「骨節の締まり極まる所」の体感する弓力の限界をもって「矢束一杯」の技を純真に穿鑿し究明し続け、骨法の道理とは何かを自分なりに自覚せねば、「引かぬ矢束」という矢束一杯の状態から更にその先の「真の矢束」に至る「骨法の技の理」を理解することは無い、と明断するのが尾州竹林派弓術の云う所でしょう。弱い弓で手繰り右肘も浮き立って数秒十数秒持って、精神が集中したとは思えません。射法訓にある射法八節を求める射では「正しきを己に求むる」事で、勝負の勝ち負けの世界の事を言っているのでは無い事は明らかです。
射法訓の射が、六分数厘の弓力も射こなす稽古をし無いで得られるのかわかりません。もしそうであるなら、本多師や梅路師、阿波師、さかのぼって高穎師、竹林坊師の哲学的論理と対比して、理論を明示することが必要と想われます。
「弱は骨法不行き届き」という同書からは到底そのような記述は見出せません。世間から六分数厘の弓が「普通の強さ弓」が無く成るのでは、初歩の者は生涯「矢束一杯が何故、射の絶対条件である等」どの様に理解するのでしょうか。
500年も前に、高穎師は「矢束一杯」に弓を引く人は殆どい無い。この病にかかっているは先ず治らない」と云っています。終いには癖がついて正しい素引きも出来なくなる」といっています。
本多師が指摘するように15間の的前では弱い弓でも矢束一杯に引かなくとも当たるからでしょう。射法の「法」の中味が論理的に筋道立った理解など、射手自身に必要など無いと確信するからでしょうか。本多師等四師の危惧は射のもつ負の本質を見据えた事と理解出来ます。本多師は求める人には惜しみなく伝えますと云われ、禅の導師梅路師も無償で実践行動されたと武禅からうかがえ、先生から伺いました。射の理は、又その実践は先哲の書に顕で草の根の如くボランティアの意識が為すところと思います。
射には法がある事を指導される方が先ず初心者に伝えてますが、矢束一杯も具体的実践で示す、そこに至る順序と指導する方法「弦を執って弓箭の通る道を示す」ことと学べます。「正しきを己に求め」、純真に「矢束一杯」を求めて行くのが「射の進む姿」であるとおもいます。心・意識がその方向で稽古に臨み、初めの一歩は「矢束一杯」などにはなりません、少しずつ少しずつ忍耐強く進む努力が必要と今は思います。その時期、矢を番え射場の一射がたとえ矢束一杯にならなくとも、手繰りが在ろうとも、胴造りが崩れようとも、振りこもうとも、それは正しい技に向かう意思を持つ射の中身が正しい美しい姿と受け入れられます。初心の方に多く見られます。感動もします。時にはあたります。
本多師の著作からは、高穎師の危惧する処の「射の持つ負の本質」に目を向けられていると学べます。価値観が大きく変容する明治の黎明期に、新しい時代の「射の持つ文化的価値」を問いかけている気がします。それは日本の風土に根差した「射法射技の本は一つ」を純真にその真実の技を徹底して学び為さないといことで、言葉の表面的な型、形をなぞることでは無く、「何故、その型、形、その射法で無ければばならないか」自分で考え答えを出し、それを射に現す事生涯努めなさいと云う事と想います。
丁度、画家や藝ごとの偉人が生涯をかけるような心を持つことを云われていると想います。少なくとも先生と名乗り、云われている人を指すと想います。現れる姿の中身を徹底して学び、それを先人が為た事実によって究明、自得しないさいと云う事でしょう。射でいえば、おのずから弓力も六分、七分の実践を修練して自得することになるはずとの指摘を含むと理解できます。
六分にも満たない弓で、筋力で見栄えよく引いてあたれば良いとする時代の風潮、欲がからんだ実情に、「矢束一杯引く射の理」を忌避して射法を論ずる病の危惧、その負の本質が、幾千年続いてきた「伝統的な射」を消滅する危機を、竹林坊師も高穎師も感じていたのかもしれません。
「伸び合詰め合い」の文言がつくる技で会で操作するのでなく「一射の連続する縦横の十文字の動態の骨格基本体型」の中に、矢束一杯からその身に応じて自然に現れる「真の矢束」が意味される事は言葉ではなく実践で理解する事、”繰返し安定した的中”が「矢束一杯をとる骨法の射法゙の自然の離れ」の帰結である事を、それは竹林坊如成師の弓術書からまなべます。それ故、その系譜の吉見順正師「射法訓」が道場にに在るとまなべます。
以上
竹林坊師の記載の意図は「引かぬ矢束」至る射手に唯一の弦道の行射中の自覚にあると学べます。「正しい技を純真にして生涯求める意識・意志」の継続性が、行射中に「顕れる」自分の心象を覚知して自覚しなさいと教えているのでしょう。それが自然の理である射法八節であり、骨法の道理を学ぶ事で「骨法に適った射手に定まる唯一の弦道」の稽古の中に意識される「正」と「雑」、「正」と「邪」とおもいます。「引かぬ矢束の矢束一杯」の会から離れが無意識化におこる事と「引かぬ矢束」の理を知って、その言葉や表面的な型、形に捉われずに、初めは意識して横着せずに継続してやがて体得せよとりかいできます。
その学び方に今の時代は、自然科学に則って此の「射の状態」骨法の道理を力学や解剖学的な見地からも研究しなさいというのは「射の眼目は自然の理を動作の上に表現する」という教本の示唆と理解されます。
そこに云う ”合理性”とは力の合理性でもありますから、「引かぬ矢束」を難しい文言を使わ無いのは、近代現代の状況から、当然、と本多師や梅路師の姿勢と愚推しました。