変化と方向性
変化を知るのにベクトルで考える事にします。ベクトルには 方向性、大きさ、作用点の三要素があります。すぐ身につけられないのが技の本質と思います。技を学ぶ姿勢をベクトルで考えます。 第一は稽古する姿勢の方向性です。学ぶ姿勢の方向性、実践する意識の方向性、現れる姿の変化の方向が大事です。
最大の課題は横着の意識が癖になった時、意識の方向性を癖を指摘されて自ら意識を変えられるかです。そして、意識を継続して実践し、心を膽練出来るかです。意識や心の方向性を自覚する事を第一に考えます。 癖は過ちと置き換えて良いです。
次にベクトルの大きさです。
正しい方向の変化なら加速します癖の技の方向は減速せねばなりません。当然です。
三つめは作用点です。
変化ですから、時系列で考えるタイミングと云えます。タイミングは内なる状況と指導する人の姿勢に現れます。意識を変化させるには、指導者のタイミングの良い指摘、自然の理を学び、当然の機に随った無知から自立・覚醒と云えます。
課題は作用の方法です。目指すべきは自立心の芽を出させることでしょう。種は常に内在化されています。技には言詮にかかわらないことが基本でしょう。「言語や数などヒトの知的な行動」は部分的な事で むしろ内実に目がいかず、外見や結果にとらわれます。
未だ生まれる以前の胎内に事象の変化を知覚する仕組みが先天的に形成されるのは、遺伝子にその仕組みがすでに在ると考えてそのを起源を遡れば、原始生命体に行き、さらに生命と有機体、有機体と無機物へと想いはめぐります。
変化を比較分析的手法で真実に至らないのであれば、生命体と前科学的と云われる禅的意識で変化を認識すことも念頭に置く必要を私は思います。事物は元より変化そのものであり、体感して自然(無意識)にあらわれることを念頭に、自覚(意識した意志)の中で今に接して存在していると理解できます。
「禅」や「道」に全く触れていない自分にとって、この事は”物質の変化”と”生命体の変化”と”ヒトの変化”を 分けずに一つとして同時に捉える意識・心を発見しなければならないという事でしょう。禅的にはそれぞれの実在に接する実践道によってのみ自他と因果を離れた心の自立が示されていると理解できます。
芸術や武芸など文化社会の活動には型・形より出でて、もとより型・形は無いと偉人は示唆されます。そこには心の無限の広がりと無限の創作の可能性を感じます。その意識が、幾数万・幾数十万年の人びと精神が、集団となって生命を継続し、生命の自然な欲求に随う生活や行動様式が伝統のかたかたちわざの中に活きて、今に活きず居ているのが明治維新の日本文明と思います。
今はどうでしょう。
現代の科学的な思考の偏りが効率とメリットに基ずく欲望に捉われた社会生活に心の自在性を見失いつつ、あらゆるものに型・形を当て込む事で得られる安心感を求めて、却って自然の摂理である生命の持続性を失っていく危うさを見つめ、見極める課題がかたかたちわざに接する中にある事を知ります。
特に伝統の事物、技と云って、型形技の表面的な姿だけを売り物にして、更には権威化して歴史のかなたに追いやれ日本文化も文明も消え失せるのでしょう。