何故、型や形を考え、創造するのでしょうか
何故、型や形を考え、創造するのでしょうか
植物や動物、大地や空気・水は、何故、多様な姿・形をしているのでしょうか。私が目に見、心に意識する世界の規則性や繰返し起こる状態は自然の本性なのでしょうか。規則性や再現性を認識するのは人の身体機能のから顕れる必然的な心象なのでしょうか。人体が細胞からなり、細胞がタンパク質等の分子からなり分子が原子からなり、原子が素粒子からなり、物質界が反粒子の存在を模索するなど、全てに法則などの型を見出し、形や変化の現象を生み出す電磁や重力などのエネルギーの力学的な゚ロセス(技)に法則を明らかにして、自己(ヒト)と、周りの世界(環境)の”認識、あるいは、外界と接する方法”として「型・形・変化のプロセス(技)」を工夫してい様に見えます。
「 物みなの底にひとつの法ありと日にけに深く思い入りつつ 」と湯川秀樹博士は詠まれました。
そこには変化する自然界があり「何故変化するのか」、そもそも「変化」とは何か、と意識する自分を見ます。「変化」を見つめる自分はどこに行き、見つめる事物はどこに在るのか。そもそも「別の世界なのか一つの世界なのか」もわからず「意識」は「無意識」を知って「心の中」を彷徨います。認識する知能や意識や感性の世界は、物質構成と動きに支配されるている一つの科学的な事象なのでしょうか。一体、認識や意識、「心」とは何なのでしょうか。本多利実師が言われる顕幽両途を感通する心象の世界観からはどのように見えるのでしょうか。
伝統の事物と「かたかたちわざ」
箸の持ちかたに始まって、筆の使い方等の様々な道具の使い方を教えられたり見よう見まねで身につけます。自分で出来た嬉しさと共に、上手になった事を褒められたり、又 「ほめたりする事」を思い起こせば、生活する全てに「型や形・技」があります。 言葉や音楽、又祭事や伝統的な事物にも型があります。その型や道具を用いる技によって様々な姿・形が生まれます。 その姿や形を眺めれば、その背景には文化や更に時代や地域を含んで文明等に深く根ざしていて、歴史の時間的な深さや風土の空間的な広がりをその背景に感じ取る事ができます。多くの伝統は変質して中味が無く外観だけの類似性をもって伝統の事物になりがちとなるのは人の心に巣食う欲望の為せるわざといえます。
湿潤な空気、豊かな水が育む日本の伝統文化に触れ、今に伝わる伝統の技を為す心の潤いは豊かさを醸し出します。伝統の技に触れ心の友にしてから60年も過ぎてしまいましたが、実践すれば思い通りに出来ない事は当たり前で、動作を丁寧に教えていただいてもなかなかその様には行きません。新しい意識は次から次へと生じ、「歳を取らねば分からないこともあります」と云われた先生の言葉を思い浮かべるほど、「技」の世界は新鮮な意識が生まれます。伝統の事物が存在することわり「理」に近ずくほどに、自分の内面の「心」が問われ、その心象が変化して顕れます。
「型や形や技」を意識しても、実践の中ではそれ以外の新たな「かたやかたちわざ」を知覚します。それを意識する自分に「心」の「変化が起こる」事は何時もあります。一体、意識を留める「技や形・型」等は何かと自身に問うことで、其の型形技を支える基本の道理を意識する自分を問い、自分の意識を変える、又は「かたかたちわざ」を変化させることで、「その技や形や形の本源、あるべき姿の道理」について再構築して再び実践する事で「かたかたちわざ」が、自然の道理に即して自分の意識に認識と乖離しない事実を、実践行動する中に覚知する心象又は感動を呼び起します。「偉大な先人の事物が触れ、為すべき指針が明瞭になる」のが伝統の「型形技」の論理と事物と云えます。
「かたかたちわざ」の「再現性と正確性」を保証する道理を自ら学ばず、うわべの姿だけをなぞったり真似たり、又、コンピューター技術の応用にて「功利」的な科学的手段と「姿の類似性」を多様性と云う文言に置き換えて、伝統の様式「型形技」を委ねてしまっては、表面的な様式だけが伝統の事物として残り、それ以前の伝統の事物の歴史的な事物と同一の線上では比べることは出来ない別物です。
歴史の多様な文化の洗練を受けた今につながる「伝統の技」の修練には、意識と行動の不安定な自己認識から、意識の行動の一致を促す陶冶によって自立心を育成するのに効果的な手法とおもえます。