「技」

技を為して顕れる姿形は瞬時に消滅し、結果に意識が固定されます。技の動作には「自然に」と云うのキーワードがつきます。何故でしょう。意識せず気負うことなく自然に動作する事が理想とどこにでも記述されます。「自然に」には意識・無意識・本能の世界の課題と云えます。「自然に」は「平常心」という社会的な要素が照らされ価値化される事が社会的な”自然”と云えます。意識を除けば、生物特に動物の仕草を意識する事から起こるのでしょうか。

「技」にはそれを用いる意識があり背後に心理や精神の課題を含みます。最も身近な言詮が「喜怒哀楽等七情の事」です。「勝気の集中力」を精神統一と云って美化する事、勝負に拘泥する根性と云う表現など等を対象に向けられた権威社会的な傾向と云えます。平常心は気分や感情に依拠する心の歪みと対局にあります。

最も「自然な動作」は動植物の動き、行動でしょう。映像で聞くナレーションにも「動物の技」とは発せられます。自然で無理ムダ無く「生に密着した一つの世界」の中で顕れる自然の技そのもの「考える世界では無い世界」と理解できます。伝統の技を自然になしうるとは「自他を分離した二律の世界観・科学的論理の認識」から離れ「自他不分離の小児のようなこの世界を意識を持ったヒト」なす「自然な動作」が伝統の技の極地にあるのかもしれません。

「筋骨と諸器官」・「記憶を起す意識を体内の道具とみたて」、生物が生き永らえる本能行動といえる個と集団の未分割の状態を、文化や文明と云う道具を備える以前の人の集団に考えを向けて「技」を想起すれば、私達個々の心身が「外の世界と分離する意識が生じる以前の状態=「本能的な自然の動作」が、生を受けたその瞬間から「意識という道具」を持つ以前に、私達の誰にもあった事を前提に考えを進めます。つまり、動作や技によって意識は無意識の中に「かたかたちわざ」をはじめから自然に形成していったと云えます。技によって形成された姿形はやがて集団で「型」や様式、躾や常識の形となって、果ては風習となり法となってヒトから乖離します。その前提に立って、ここでは伝統の型を用いて技を実践する中に「心に顕れる意識とは何か」と「自問する意識」を課題にします。

その際、「自他を分ける意識」で観察する自身の心を見る姿勢と「自他を分けない意識」で「顕れる心」をどう表現するかと云う課題がある事を前提に進めます。禅導される先哲の書や「正しい技に取組む姿勢・意識」について述べられる方々は「純真にして素直な心を以て事物に接する」事を示唆されます。それは前述しましたように”生後、意識が生まれる間に心に現れる世界”、つまり”自分をを意識しない”一つの中の行動が存在する事実を念頭に据えておかねばなりません。つまり意識は無意識の世界に存在している事、意識は後天的につくられる道具と見立てて進めます。

正しい技を常に求めても、比較差別の相対観(二律の科学的認識観)に陥りやすくその意識から離れた修練の先に、意識を変えられるか否かを先哲は問うていると理解できます。自他を分離できない一つの世界がある事が偉業を為した先哲の実績に顕れている事を念頭におかねばなりません。其れよりも大切なのは、名もなき方々が尋常ならざる事を為した事物や話は多々あります。わざが完全でなくとも無限の無意識の域にある力は意識を超えた能力を引き出すのでしょう。”ひとには無限の可能性があります”と云われる事も念頭に考えを進めます。

「自然の動作の技」の事を技の実践を通じて顕れる姿の実相を”見て見つめて見極めたいと思います。”今はその道に至る入口の門”を叩けるか否か歩んで来た道から「かたかたちわざ」を考えてゆきます。