かたかたちわざ
かたかたちわざ
想いを馳せ創作する楽しさは人とほかの生命体と異なる行動にあげられます。意識の中に無限があって想いは無意識の中にひろがります。かって無かった新しい感性の知覚が、文化に根差した科学的方法による新しい認識として意識される事を、創造的な行動と認識されるのであれば、「かって無かった新しい感性」による創造は常に「かたかたちわざ」の中で起こる心象に限定されるのでしょう。変化を認識する道具としての「かた」は常に変化し、意識は想像する「時点」と「その方向性」に働き「今、その時の事象と心象に中に心の目を据えること」なのでしょう。
見えないものを見る、未来を予知する、五感を心象にするなど「そうぞうの働き」は、意識の中に継続してとどめられる事象と、生来ある無意識の中の無知覚の記憶から「意識というヒト固有の道具の働き」によって呼び起こされた「ひらめき」等の心象、とが折り重なっていることが想像や行動の世界に在るのでしょう。そのような世界における新たな創造もまた、既存の「かたかたちわざ」の内にある心象とおもえば、新しいと認識する世界は常に「意識している”在るもの”と無意識のうちに”あるモノ”の境界にある世界」にとどまります。それ故、創作や創造の世界に呼び起こさせる「ひらめき」と称する心象は「在るものと無いモノの境界が無い意識」に認識の目を向けさせます。
個を細分化するほどに個と集団の境があいまいな生物の多様性を知り、他の生命体とヒトの体の同質性を想うと「かたかたちわざ」の「境界など認識しない意識と無意識が混在する心象と事象」が浮かびます。人の「かたかたちわざ」の極致を目指すAIによる情報化社会の到来に在って「無意識の世界と意識の世界」などを分つ「かたかたちわざ」などもともとあるはずもない認識を「そうぞう」し意識しながら「かたかたちわざ」を考えてゆきます。
「創造と想像とそうぞう」かたかたちわざの為す事
何故その「型・形・技」なのかを問い、その道理を学び究明しつつ稽古し、実践に臨んでは「型や形・技に囚われず」誠心誠意の自己を尽くしなさいと云われれます。伝統の事物と伝統の技の実践には創造性と自立の精神をはぐくむ力が在ることがわかります。そのことはこのHPに記載した二つの異なる伝統の技の記述に述べてきました。
伝統の技の本にある「自然の道理」を学び、学ぶ心の内に目を向ければ、意識の内に無意識に顕れる事象は日々混在し、心は意識無意識の境を行きつ戻りつする心象のうちに、自他を乖離させて詮索して認識する二元的な心が浮かびあがります。
「自己を尽くす」決断の意志のうちに因果の比較差別の意識を呼び起こさない一元的な心のうちの無意識の意志が意識されます。
行動や動作の内に顕れる「欲求や欲望の狭間にいる心」は、その心の生まれる元の世界に意識をいざない、無意識のうちに在る生の純真におもいをはせます。
自他の乖離など、生を受けたその瞬間から吾にあるはずも無く、何時からそれは始まったのか、「かたかたちわざ」の仕業なのか「変化」のしわざなのかを問わずには不明です。伝統の「わざ」を使う稽古では「もとより型・形は無い」と「技」を究めた方は述べ、良導の師は「小児の様な純真さになって稽古修道なさい」と云われます。
「型や理念」に段級称号等の権威付けを伴う集団の指導者は「無心」を唱えます。「無心」など「欲」の目隠しとして在るはずも無い事を言われることも意識して、技を実践する三つの示唆から「かたかたちわざの根源的な課題」を考える事にしました。
「禅と精神分析」より 鈴木大拙博士の示唆
「禅と精神分析」東京創元社 昭和35年刊 鈴木大拙、E・フロム、R・デマルテイーノ 共著 現代社会科学叢書
「禅仏教に関する講演」鈴木大拙著、小堀宋柏訳
一 東と西 P12
芭蕉(1644-94)、彼は御承知の通り17世紀の日本の詩人として偉大な人だが、彼に
よく見れば薺花咲く垣根かな
という17文字の俳句があるが、・・・・・(以下略)
これが東洋である。さてそこで次は、これに比すべき西洋のものは何かということを見てみたい。テニスンという人がある。彼は東洋の詩人と比肩せしめ得るに足る西洋の代表的詩人とは言いえないかも知れぬ。けれども次に掲げる彼の詩には、芭蕉の薺の句にきわめて近い何ものかがあるようだ。
壁の割れ目に花咲けり
割れ目より汝を引き抜きて
われはここに、汝の根ぐるみすべてを
わが手にうちにぞ持つ
おお、小さなる花よ
もしわれ、汝のなんたるかを
根ぐるみ何もかも、一切すべてを
知り得し時こそ
我と神と人との何たるかを知らん
この詩で私は二つの点に注意したい。
1.・・・・・(以下略)
・・・・・私は芭蕉とテニスンの二人の詩人を取り上げたが、この両者によって私は真の実在に向かって進む二つの道の根本を示したいと考える。・・・・・・(以下略)
「かたかたちわざ」の二つの対極
変化を知って新たな創造と自立を促す「かたかたちわざ」の対極には、「かたかたちわざ」が差別化を生み出す道具になる視点があります。「かたかたちわざは」はヒトを疎外し自立を排除し創造性の芽を摘みます。何故、差別は生まれるのかが課題に上ります。
伝統の技や競技スポーツの世界を見れば、技を究めた「型形」を生み出し創作した人・始祖の思いとは別に、創作者没後、後継を自負する人が流名付け「流派」を組織して他派との差別化を目指し「型形技」を規定し、やがて名前と組織を維持する姿形だけが残りゆくのは歴史に明らかです。そこに多くの疎外やハラスメントなどの課題が生まれている事は歴史や現代の報道に明らかです。
事前事後を問わず、集団の多くは「型」「形」を建て「道具を具え」「行動すべき技を規定」します。歴史にはあまたの「法」が生まれ、法を守るために「武」を用い、村々には「風習」があり維持する「掟」を作ります。家には「作法」や「躾」があり、言葉や教育等など「型」「形」「わざ」や「道具」の中で私たちは経験して意識が形成され、意識無意識の世界に記憶され創造や自立はその中でおこることと想像されます。
「型形技」が文化や文明のしめす社会の事ならば、生まれ出でた時の「ヒト」の姿とは異なるとおもいます。生まれ出でた時の「かたかたちわざ」が意識を定めるなら生を受けるその瞬間のことに想いを馳せて「かたかたちわざ」を知らねばなりません。それ故「かたかたちわざ」の本質、道理を学び自らの意識を定める事が必要です。
かたかたちわざにひそむ「差別化」はなぜ起こるのか。それは私達自身を問うことになります。特に極端に発達してゆく情報化社会に在って創造と自立の尊厳を人の中心に据えれば喫緊の課題といえます。
「かたかたちわざ」が細分化を繰返しその本の道理等不明になれば『道理があいまいな「かたかたちわざ」の世界』で生まれる変化を認識する「型」そのもが「変化を正しく」認識させるかは疑問です。
「型」は創造的な意志から興る工夫に因ると認識されます。創造者の意志は、その型を用いる者が「何故其の型形技なのか自然に思い描く筋道、汎用性が含まれる」と学べます。その事が、創造者の「型形技」の道理を無視すること無く謙虚に向き合い素直に己の心に触れて自在に自身の無意識の中の「かたかたちわざ」と融合して、創造的な実践と自立を促すと理解されます。その汎用性とは人が生まれ出る時の自他のある世界で自他の分離しない世界の無意識の世界の経験が誰の内にも有ると思い描くことができます。それ故、純真になって小児の如くに心の目を向けること理解できます。
「型形技」を問えば、問う自身の内の「かたかたちわざ」の中に謙虚に触れて、先ず其の事に素直に向き合う事と学べます。つまり、「生まれ出た自身のその事」に想いを巡らせば、誰にも自他が乖離しない「かたかたちわざ」の世界があって無意識の世界に映し出されている事を想うことにして「かたかたちわざ」を心の欲求に従って創造的に動き自立します。
結果に意識を置く二元的世界から抜け出て
「かたかたちわざ」などの意識が去来しない一元的な認識と行動ができる世界の入り口に至る一筋の道は在るのでしょうか
「型」を「変化認識する手段(道具)」と考えてみます。
「型」には様々な「道具」も含めます
つまり道具はすでに型を内在している「型」を広くとらえます。
道具
文明と文化のある集団の言語、記号、音符、数学、骨、身体
社会システム等と、利用できる科学的認識手法の自然の事物など
人の創造したすべての事物
「形」は技を用いて動作して顕れた現在の姿、又は予測する未来の姿
「技」は「型」と「道具」を用いて、心の心象に随って動作・行動する筋道と考えます
「人の内にある道具」は二つあります。
「骨」と「意識」です。
「骨」は変化せず「身体の姿の本になる道具」で
「骨」は死後も残ります。
「意識」は「無意識の中から記憶や意識を引き起こす道具」で
「意識」は変化し多様ですが「文明や文化の構造」の中に残ります。
因みに「法のある射」はこの二つの道具によってその「型」「形」がみちびかれます。
わざを使って現れる姿かたちはその技を使う心象・心の風景です
覚知して意識に記憶され、覚知出来ずに無意識の中にとどめられると心の心象を伴います
加えて現代の科学手法は
言葉や音声、映像、筋骨など身体的変容の記号化等道具をもって記録伝承され、
その姿形と心象を生理学的手法で類似体験を呼び起こす可能性など
「かたかたちわざ」の新たな様子が見えます。
伝統の技を実践すると自分にはわからない、説明もできない何かが現れる経験をします
初心の技に向き合う無我夢中の心に
型形を知って、技の善し悪し等心の内に去来せず動作し
「知っている ”型・形・技” 」を無視する事も無く、ある意味凌駕して一心に自我を尽くす動作には
時として、別の心象と姿が顕われ
その心象が新たな認識を呼び起こす道筋
と意識すれば
その事が、「何か判らない ”かたかたちわざ” 」を考える切っ掛にもなります
先ずは純真に、何か判らない「かたかたちわざ」に接します。