「骨法の然るを所以を知る」稽古
沢庵禅師「事理の両輪を回す」稽古:帰無仮説
「骨法の然るを所以を知る」稽古
沢庵禅師「事理の両輪を回す」稽古:帰無仮説
不明に苦しみ、挫折を抱きながら工夫し、繰返し見直す稽古は常に伴います。
工夫・方法は無数・無限にあり、その様相こそが人生模様ともいえます。
しかし、八節の射法には自然の理に適う「骨法の理」が有ります。不明に迷うとき戻るべき「本」、原点です。
再び稽古を為す時「この本に帰って」又、新たに骨法とは何かを問い、今までの考えに捉われずに「心を無に帰して」向き合う事です。
すなわち
沢庵禅師「事理の両輪を回す稽古」とは
① 射法の「骨法の理」を解釈して自分の考えまとめ、射技の「具体的動作を心に明記」します。
② 実践してその「正否」を確認します。確認とは射行中の意識と残身(矢飛と矢処)の認識です
次の射に臨む前に為すべきことは何か
③ また骨法の理に戻って考え、次に、実践する具体的動作を新たに意識して実践に臨む覚悟です
すなわち
「前に自分で考えた射の理」=仮説をひとまず置いて、自分の考えに捉われずに心に無にして(帰無)、新たな心で骨法に接する事
まさに帰無仮説の如く稽古し、本多利実師が言われるように「射はただ射て成るとは決して思ない事」です。
「射が骨法の然る所以である」事を射を実践して自覚する事
が弓道の入り口:八節の射法を学ぶ事になります。
自然の理に適う射法がある弓道は常にその理に帰りこれを学び、射法の理を明らかにして、再び新たに行動する事になります
行っては戻り試みて思索し、自身に去来する、射の成否、正雑、正邪の自覚と理解に努めます。
自然の理とは、やがてその思索をも超えてゆくところの認識なのでしょう
学ぶ立場から思う指導とは
指導者は学ぶ人の努力の筋道を見守り、迷路に迷う事の無いよう自覚し自立する自己鍛錬を射を、自ら実践して指導されます。
技は教えません。ましてや形をなぞることなど指導しません。弓箭をもって実践で示し、指導は「弦を取って導く」事でしょう。
こだわって述べれば、そこに強弱共に射こなし、相応の弓にて規矩に適い離れる以前に中外の理が判る一射を示されるのでしょう
それに適う射の理は先哲の文言と実践の記録に随って一筋の道として示されて居る事を示すでしょう