”かた”
繰返し同じ様にあらわれる現象を「型」や「法則」で表せば、あらゆる生命の働きをはじめ、自然が変化する様子等、意識する事物のすべてが其の対象となるのでしょう。ヒトの活動も身体的特徴や用いる言語や道具、更に祭事など同じ所作や行動の繰返す集団の姿・形にも文化や文明などにも歴史的な時代認識を伴って「型」をあてはめて来ました。
特に、その基盤にある私達が創造した”数”や”言語”、”音符”等など様々の”記号”も当然、其の対象です。むしろ、それによって意識が作られていると云えます。原初はともかく、少なくとも、私が生まれる以前から型や形があって、それによって物事を意識していると云えます。しかし、それは意識が織りなす虚構の一部でもあります。
何故、私たちは繰返し同じ様子と認識できる、または意識するのでしょうか。私達や自然そのものが繰返し同じ様にあらわれる本質が在るのでしょうか。そもそも、意識を変化する中に身を置かず、変化する状況を眺めている自分を意識するからでしょうか。
現象を記録し再生する記憶の”機能”や”能力”を保有する事が、意識・無意識を超えて、生命体の基本特性と考えれば良いのでしょうか。それ以前に、物質と生命体の”境界の事物”が、に存在する「分離・結合」の仕組、分子構造の変化の仕組など等、変化する自然界に、 正確に分離・結合する法則に従って変異し又は同質と意識される特性が、物質が生まれた初めから”在る”のでしょうか。
再現性と正確性
自然の仕組みに見られる繰返し現れる姿・
形の再現性と人の再現行動の正確性は
生命の維持に最も重要な事と云えます。
「かた」を用いるのは同じものをつくる意識があるからでしょう。自然の事物が繰返し現れる姿・形が同じ様に現れるのか、同じに現れるのか否はわかりません。そのため再現性は正確性が問われます。
正確性とは何かを問えば、その事物の姿・形の物理的な要素が上げられます。その上に、感覚的あるいは精神的な定量化しにくい要素で意識が知覚する再現性もあります。更に云えば、感動とか驚き等自他を超えた一つの世界観も経験します。
伝統の事物では常に問われる事で、卓越した技を持つ職人がつくる事物には科学技術では測定できない(論理的に説明できない)正確な再現性を指すと思います。特に、正確性の精度を評価するコンピューターがもたらす世界では、「技の実践」に関する大切な課題と云えます。
型は変化を知る道具
変化する状況をいつも正確に知りたいと思うのは人の本来の欲求と思います。それ故、「型」は変化を認識する”一つの”道具と云えます。変化の様子・姿を表したモノが「型」といえます。しかしそれは変化を意識する対象の一部であって全部ではありません。その上、意識する自分は変化しているし、意識した時とと次の瞬間の関係は異なると考えれば、意識する事実の正確性は科学的な認識方法では限定的と云えます。それ故、科学的思考を持つ私は、二律背反の実在の認識を抜けて、自他を分離させない認識を本来の欲求として一人一人の「生」の中に、生来在ると思いを馳せることが出来るのでしょう。
神業と云われる伝統の技をもつ偉人、禅を拓く偉人の行動に見る事ができるのでしょう。当然そこには型等ありえません。