はじめに
はじめに
”かたかたちわざ”は不思議です。私達の目に映ろうが見えまいが、意識はすべてに”かた””かたち”を創造します。変化を知る道具として意識する型はどこからいずるモノなのかと、意識すれば、意識は無意識の無限のかなたに定まるのでしょう。
光や重力等自然界の森羅万象に法則やかたちを創り、集合して生活を営む姿に文化や文明を定めます。道具を使う一つ一つの動作・行動のもとに宿る ”かた” や ”かたち” ”わざ” の「理(ことわり)」に「何故」と問いかけ、”わざ”の実践を通してそれらの「本」を見極めれば進むべき筋道が浮かびます。
意識する私たちの生命体を見つめ、素粒子やエネルギー等に型形を与えて認識すれば、「かたかたちわざ」は私たちの自身の理解の源でありながら「型形」も常に変化し続ける世界と意識する自分のうちのあって、自分と他を分け無い世界を自覚することが出来るのでしょうか。その問いは、自他の乖離が無い世界が生を受けた瞬間から意識と無意識の世界を行き来して、生を受けたその時から自身の無意識の中に”その事”があることを誰もが経験していると意識するからです。型や形の束縛や科学的な認識から解き離された時、自他が乖離しない自然に則した生活を営めることを想いえがきながら「かたかたちわざ」の世界にふれます。
「伝統の技」には我知らずそれが顕れると感じます。「型形技」の実践を感通して顕れる無意識の世界と、技を実践する自分の意識に去来する「正雑正邪」を見つめる「心」の世界に顕われます。「正しい技」とは何かを問い究明する事は「技」の指針となる「型や形」の「自然のことわり(理)」を学び究明し、実践して自得する瞬間の事象と心象に顕れると云えます。圧倒的な科学思想の教育と生産に支配された現代文明に在って、伝統の技の実践を通して知る「自然の理」に「かたかたちわざ」とは何かと、その問いが常に蘇ります。もとより型形など無いといわれる先人の偉業に触れて、求めてその理を学び「伝統の型形技」を実践修練することで「かたかたちわざ」を感通して自立し、進むべき筋道、自然の道を覚知する事と思います。
「変化を知る道具」として型があり、実践して「型形の道理」を知り「正しい技」をひたすら求めて伝統の技を稽古する道に、いつか「かたかたちわざの理」を知ってこれにとらわれない、自然の中にいる幼児のような本心がよみがえり、自他を乖離させない自分自身を思い描いて歩みを続けます。そもそも「変化」とは何か、意識する私に無意識に応じる姿が映ります。
風は見えませんが心にはうつります、心は見えませんが姿はうつります。技とは何か、熊田画家の言葉をお借りすれば、その姿を“見て”、今”見つめて”、私は”見きわめたい”と願っています。
平成29年6月1日
風姿・浩茂