射:「正しい」
射:「正しい」
「正しい」と云う言葉は弓術書に良く現れます。
何故でしょうか。私は射には「法」が在るからだと思います。
偉業を為した先哲は、弓は「法」を外し七情の「邪心」や勝ち負けの欲望に心をおとす器でもある事を警告してるとおもえます。
飛び道具ですから”あたる”事を”ヨシ”とするは誰の心に去来する事です。
しかし、当たる事が”必ずしも 正しい射技の結果では無い”と教えられ、「正しきを己に求める」等の指針が「射の道」にあれば、先ず「正しい射法射技とは何か」を自らに問わ無い訳にはいきません。
指導者は謙虚に答えねなりません。
”技即道”と道を唱えた技を指導するのであれば「形ばかりを教える射の姿」は「正しからず」と明断する本多師をはじめ先哲の指摘に応え、之を唱える先師にならい「技」を実践せねば成りません。
当然”道即技”と「道」を説く指導は、具体的な実践・修行を為された導師の人を導く道法と射の教法とが実践指によって示されるべきでしょう。