打起
打起
射法八節のポイント
2008年「稽古の資料」の稽古資料
この早朝稽古の第一に、私は「打起」を取上げたいと思います。皆さんはすでに八節を 熟知していますので、当然、「打起」は連続する「弓構」と「引分」を学ぶ事が必要です。
財団法人生弓会発行「本多流弓術書」によれば本多利実師は
「新式射術姿勢規定」に「先哲曰、打起悪ければ全部し難し」と云われ
「射法正規上巻」に
「打起の度と云うものは初心の人の知りにくき事…」
「惣身の正しき規矩に合う所まで手をあげるを曲尺とす…」と自得研究して身に着く事と述べております。
「無影心月射儀」によれば梅路見鸞師は
「射の成否は、引分けの起こりにおいて決するなり」
「打起しの頂点に至りし時に、既に此の正邪は胚胎しいる」と示唆されています。
一番難しい所を先生に伺った時、”打起から引分の境”を動作でしめされ「ここだろうな」と云われた事を心にとめて稽古しております。
何故、本多師は「打起悪ければ全部し難し打起の度と云うものは初心の人の知りにくき事…」と云われるのでしょうか?
何故、梅路師は「射の成否は、引分けの起こりにおいて決し、打起しの頂点に至りし時に、既に此の正邪は胚胎しいる」打起の大切さをいわれるのでしょうか?
「打起から引分が始まる境の連続性」に在って「打起の重要性」を説き、その示唆に集中して私は稽古を重ね、「何故、現代射法が自然の理を旨として、日置師の発明した”斜面打起の正しい技”の筋道の全てが”正面打起”に連綿と継続されているのか」を実感すべく私は練習しています。
これから述べる事は主に「具体的技」に関り、精神性は深く言及しません。「射法射技の本は一つ」と云われる先哲をリスペクトし、その示唆する処を取上げ、「何故、その様に云われるのか」との問を互いに発す きっかけに成れば幸いで、日々の相互研鑽の糧にと思い資料にしました。
「リスペクト」とは「先哲を敬い、まず、先哲の示唆に素直に向き合い、実践し体験しその上で自らに問いかける」意味で用いました。問いかける事を心がけたので 八節を学んだ方なら、何処から読んで戴いても結構と思います。
各師の示唆にコメントを挟みました。「形にとらわれない、弓箭の操作にとらわれず、ひたすら、上腕の骨の向きに等しく弓を押し広げる射行」に意識を向ければ、先哲の「射の理念」と「八節の各節の境の射技」の重要性におぼろげながら心に感じ、稽古実践するにつれて弓力が増し、少しずつ 射が安定する実感をここに綴ります。
「稽古の資料」 以上
射は八節の「射法」:「法」が在ります。その「法」は「自然の道理に依拠する骨法、一つ」です。「射法射技の本は一つ」と云われ、「正面打起をもって、現代につながる多くの弓道家を育成された本多師の著作を軸に「正面打起を執る諸師」の弓術書、又は記述に学びますが、浅学の私にとっては、射場で指導される方々の打起の内容は様々に思えます。実践されている姿も一様ではありません。
何故、でしょうか。射は理論と実践です。指導は、まず、骨法の理に則して射法射技の説明をされ、何故、その規矩でありその技を為すのか「骨法の理」に矛盾する事が無い筋道、何故、射法八節なのかを説明して具体的技をのべ、射場で実践してしめす事と理解できます。その一つに六分数厘での射行を日常的に示される事も含まれると理解できます。
この「打起の終わりから引分けの始めの節」の射法射技についても、八節全体の連続性と矛盾無く、特に”節の連続性”が骨法の理に随って説かれ、実践して示され指導されるべき事と云えます。 ”打起しました、ハイ、横 に広げます”では 無いハズです。
「内面の力:骨力が直に弓箭に働く続ける状態」で打起を経て引分け入る動作の連続性を理解するのに、力学的なベクトルを利用してとらえれば、このような射形の規矩に捉われた弓箭の形を意識して操作する動作: ”打起しました、ハイ、横 に広げます” には「ベクトルの力の方向性の連続」をどのように説明できるのでしょうか、そこを問うことになります。「射の理、射の始めから弓弦を押し開き続ける身体の力の在り方:骨法の理」との整合性を考える事が必要が意識されます。射法の法の在る射技を体得するには「事理の両輪を回す」ことの必然性と理解できます。
八節の型を知り実践してこれを学ぶなら、先ずは 「何故!」と自に問い、指導される方に問い、自他には素直にして謙虚に常に発する姿勢が大切である事を心に留めて話を進めます。先哲が幼児の様な純真と云える気持ちになって問いなさいと言われる意味は深く、詮索せずに心に去来する不可思議な事象に接して動く、幼児の一元的な意識、認識と行動を観る想いがします。
起に「何故」と問い続けます。
課題:「打起」の高さ 等
何故、打起すのでしょうか
何故、正面に打起すのでしょうか。
何故、斜面の打起の方法が在るのでしょうか。
何故、「打起」と「打ち上げる」と在るのでしょうか。
何故、教本では「打起の高さは約45度を基準」としているのでしょうか。
何故、「本多流弓術書 ”射法正規”」に本多利実師は「惣身の規矩と合うところまで出来る限り上げる」と示唆されるのでしょうか。
何故、「本多流弓術書 ”弓術講義録”」に本多利実師は「手は上がる限り上げ体は沈む限り沈む」と示唆されるのでしょうか。
何故、「本多流弓術書 ”射法正規”」に本多利実師は「惣身の規矩と合うところまで出来る限り上げる」と示唆されるのでしょうか
何故、本多流弓術書にある記述、本多流昭和6年師範会は「打起の高さを45度」と数値化されたのでしょうか。
課題:「打起」
「本多流弓術書」
何故、本多利実師は”打起こ悪しければ射全部し難し”「打起の度と云うものは初心の人の知りにくき物なり」と云われるのでしょうか
何故、「本多流弓術書」「弓学講義」で本多利実師は「手の裏を先に作って打起すのと、中力、大三までに作るのとの間に損得はない」と示唆されるのでしょうか。
「無影心月射儀」
何故、梅路見鸞師は「射の成否は、引分けの起こりにおいて決する」「打起しの頂点に至りし時に、既に此の正邪は胚胎しいる」と記し、本多利実師と同様「打起の過程に射の総体を決する」と説いておられるのでしょうか。
何故、本多師と梅路師は近代弓道に正面の射法を置き、的前に四つ掛け懸を用いさせたのでしょうか。
何故、弦枕は、折り目:親指第二関節から、親指付け根:親指第一関節の技術的に難し場所に移ったのでしょうか。
何故、との問から学べる事
《稽古で意識する方向性》
「射の理」と「八節の節の弓・弦を押す力の方向性の連続にかかわる射技の理解」に注力して、先哲が示唆する「形に捉われない、弓箭の操作に捉われない射行」とはどのような身体の働きなのか理解して、先ず、弓・矢のすがた形を忘れた:つまり矢を番えて無い素引きの様な気持ちで、見えない骨力を意識して上腕骨の向きに常に骨力を押し広げる気持ちに意識をおいて、弓構から打起の境を実践する事とまなべます。
私の射の風景は、具体的技は教本を基にしてあります。本多師社会人系譜神永師の記述、学生系系譜高木師の記述を基に、「する」では無く「なる」との見方を先哲の射の理示唆を取り入れ、弓構えまでに能動的に「する」意識でなした過去身が整えばあとは、押し開く一念の連続する骨力の方向性で「自然に成る」と受動的に考え、実践するのが私の射の風景といえます。下記に少し書き加えます。
《骨法の射の理》
何故なら、扱う道具:弓の本質は「連続する反動力」で身体の骨には圧縮力になります。「弓の復元力は連続です、途切れません。それ故、射手の応ずる骨力は動態の性質:連続性に押し続ける(力学的ベクトルの三要素の連続性)」事が「射の理」と理解出来ます。当然、その時の射手の意識・精神性は「押し開き続ける一意を尽くす事」とまなべます。それによって全ての現在身の変化が射行の瞬間に知覚され変化を予知する状態が整うとりかいされます。
射を学ぶ姿勢
動的な要素をベクトルの考えて先哲の書を理解し、具体的技を想起し、射の実践を試みて再び読み砕けば、そこに「本多師や梅路師の記述」を介在して、「現代弓道」と「射法訓」をつないでいる「実践する”型・形・技”」 と 「学ぶべき”理念”の共通性」に気がつきます。「竹林派弓術書」や「射学正宗」と共通している事が理解できれば「射法射技の本は一つ」の一つとは何かを理解し、射場に一射に臨む姿勢実行する姿勢と、意識を覚悟し迷いを去るとまなべます。
それ故、先哲は、実践稽古だけでなく「射法」を勉強しなさい「法」とは何かを究めなさい、良い先生につきなさいと云われるのでしょう。骨法の理を意識するまでに20十数年もかけて仕舞った吾身を振り返れば誠に取りかえしの付かない事ではあります。若い時に強い弓を修練しないと生涯引け無いと云われる師もおられますが「骨法の理」を実践される先哲の言葉には見つかりません。意識さえ変えれば40歳半ばからでも先人が六分数厘を普通の用いて今、私たちが語り合っている射技、射形を新たな目から取り組めば出来る事と今は云えます
再度、新たな意識を記述します。癖の無い新人は六月から一年で骨法の射を身につけると本多師と高穎師は言われます。素引きと矢番え動作の違いを意識して骨力で行っている素引き動作を知覚して自得し、弓箭を手にして同じ動作をして弓が垂直になり、矢が水平になる打起を自得する事でしょう。本多師が初心の方にはわからないと云われる意味を吟味し続ける事になります。竹林んはそこに弦がらみの技と一つ手の内の技を示唆した故、本多師も梅路師も正面打起以外現代射法に用い無いと愚推します。
私の射の風景
私の射の風景で述べました学ぶ立場から考えれば、迷うことなく一つの流れを信ずることが出来ます。それは、本多師、梅路師が「射法射技の本は一つ」と云われる示唆を問い、解読すればするほど本多師、梅路師云われる要諦に従って教本の神永師や高木師の述べている八節の技が骨法の理に従って理解が進み具体的骨力の動作が明解になります。上記しました如く、現在身の技は「・・・する」のでは無く「自然に成る」事が実践で体得できます。神永師の技の説明に用いられる能動的な言葉を「押し開く動作する一心以外、総ては成ると受動的に捉える事」ことと神永師の全体の記述からまなべます。その事が射から少しずつ詮索する邪心と雑な技から離れる入口になったと今は回顧します。それで教本にある六分数厘の弓は下手ですが悠に射こなせると今は実感しています。
「…する」と形をなぞって詮索しながら横着して姿・射形を調えようと道を違え、少し、少しと弱い弓を求めてゆく道とは異なります。それで癖がついては、次第にそれが癖であるとの意識が無くなると高穎師が「射学正宗」に記すとこでしょう。弱い弓で弓を引く癖が骨身に浸み込20数年、上腕の骨の向きに弓を押し開く射に意識を180度変えて30数年、骨にしみついた癖は治りませんが、実践して自覚できるにはさらに歳月が必要と今はおもいます。今は、相応の弓を手にして射場の一射が悠々と為せること想い、日々巻き藁で強弱共に少し少しと強い弓が体に納まり矢が出る爽快感に稽古する楽しさはますますまします。