意識・無意識・心

 天気など普段生活している身近な状況であれば, 意識的であれ無意識であれ、その人の生れ育った状態や生活習慣等に沿って天候の変化を予め予知して行動が現われます。歳月を重ねるにつれて、その行動に一種の繰返し状態が自他に意識されれば、個性と云われる認識の仕組が体内・外に形成されるのでしょう。生れながらの姿で在れば、その人固有の性質が対外的に繋がった欲求で、先天的な能力と云えましょう。

ここのテーマかたかたちわざは「伝統の型や形」は、誰もがその「型・形」を使える「技」を身に着ければ、手にする"材料"のバラツキや変化、自身の気持の変化、行動する周囲の環境の変化等、「わざ」にかかわるあらゆるモノが変化する状況で、事前に変化の内容の全てを察知しつつ、今、現在の為すべき行動に”正しく導びかれるわざ”と云えましょう。

生存に必要な欲求に支えられた”道具と技”を”正しく使う”の意識の進展は、ヒトの意識と記憶の仕組に”集団で生存を存続”する生体の機能が、文化や文明の仕組を発明したことによって個体の能力を持続、的且つ発展的に構築していく後天的な能力と云えましょう。

個々のヒトに具わる”生きる”という基本に基ずく欲求から出る”先天的な予知する能力と後天的な予知する能力は、個体と集団の関係で変化しつつ育成されますが、同時に、意識の中に二つの仕組みが、新たに育成されると考えることが出来ます。一つは「心の働きの仕組み」であり、もう一つは欲求の働きと結びついてはいますが、働きの異なる「欲望の仕組み」を発生を促す事になりました。この仕組みは行動の拡大と制御に機能すると考えて良いのでしょう。特に、生体内の欲望の仕組みを個体が意識する、しないに拘わらず、文明・文化のなかの「型」の基本の様相として捉えることが出来ます。

普通、本能の仕組みの制御が効かなければ、生物界では集団での自滅等が見られますが人のそれは。固体内に向くよりは、個体を取り巻く環境の変質を要求する行動となるのが歴史の示す所でしょう。レイモンドロウ氏は”開かれた欲望は閉じない”といっております。

大切なのは、道具を用いる自分の「心の状態」を、自身が常に把握して、その「心」が何処からやって来てどの方向を意識しているかを問わねばならない事です。 竹林坊如成師は「弓は身に随い、身は業に随い、業は意に随い。意は心に随う。心は・・・」と云っております。

多様な世界を相互に認め、事物を型や形やワザを以で教え・伝えるの真実性を、自ら問う謙虚さと素直さから離脱して「欲望」の世界視点に埋没し、否、埋没している事すら自覚できないのが歴史のす事実と思います。特に科学思想に基ずく文明の世界では、著しく能に基ずく生の欲求が叫ぶ心を意識する能力が低下して行く様にこんにち、深く感ぜられるからです。

文化や文明は、集団で生きる為に工夫創造されたモノ・型・様式で知りますが、その根にはその風土や歴史に根ざした必然性、道理を見る事ができます。その様式や型も社会の変化につれて変化を続け、ある物は変質して他の型になり、又は拡大し、ある物は消滅します。が創意工夫した社会の型にある道理には「心」がかかわりますの、普遍性と一般性の要素を持つ自然の事象の真理と異なり、自然の理を含みますが常にその普遍性と一般性を問うことが必要です。

創意工夫された「型」の外観や形式には、ヒトの創意であるがゆえに「これで無ければならない」と云う事は無いと云えます。特にひとり一人の心を束縛する「かた」など無いと型を工夫された先覚者が云われる処を、「型・形・技」の道理と其の本質を行動を通じて学び、次第に純真になって正雑と正邪の狭間にいる自己を自覚することで、本来自分が為すべきとを自然に明瞭にして行動を成し遂げる自己開発ことと理解できます。

それ故、自然の型であれ社会の型であれ、其の真理と真理に辿るすじみち(道理)で変化に応じて行動・実践する「心」が純真になる迄、為すべきすじ道が正しいすじみちか、正しいすじみちを欲求している自己の意識を決し、持続してなおかつ其正雑に捉われない心の自在性に目を向ける事なのでしょう。   

「型」は変化が予測される次の状態をある範囲において「正確」に人に知らせ、為すべき今の行動を即座に決断実行する道筋をしめして、来るべき正しい結果を「正確」に再現 できると、確信させる能力を養う「道具」と云えます。その道具を正しく扱うには、必ずその型や形や技の生れ出る本源を心底から究明し、其の真理を実践して体験する様:務めて行く方向性(技を身に着ける純真性)を自得する事でしょう。努力してその道理をみずから明らにする行動を積み重ねる事が、欲望と戦い、純真になっていくと思います。

「型」の生れた道理は、自然の事象の中に創意工夫されたモノと認識すれば、自身の生の欲求に素直に向合い「型」の示す処を実践行動するうちに、自然の事象の真理に自覚に至るのでしょう。