射法八節と正面打起
何故、本多利実師は近代以降の弓道に正面打起射法を据えられたのでしょうか
何故、梅路見鸞師は正面打起と四つ弽を用て「道」を実践されたのでしょうか
射の「かたかたちわざ」の背景にある道理を共に考察しつつ、
1・射法八節の各節の技
2・射法八節の技の記載に「何故」そのような規矩なのかを問い
3・射法八節の境の技の連続を考えます
射法八節と正面打起
何故、本多利実師は近代以降の弓道に正面打起射法を据えられたのでしょうか
何故、梅路見鸞師は正面打起と四つ弽を用て「道」を実践されたのでしょうか
射の「かたかたちわざ」の背景にある道理を共に考察しつつ、
1・射法八節の各節の技
2・射法八節の技の記載に「何故」そのような規矩なのかを問い
3・射法八節の境の技の連続を考えます
はじめに
50代の後半、”射の目的を同じくする人”と早朝稽古を 始めました。八節の節々の技に 「何故!」と問いかける稽古の姿勢で、先哲の書を教科書に「骨法」の理を学び、教本各師の技を実践で相互確認をしま した。本項に出てくる記述はその時の資料を上げました。 ”射の目的を同じくする人”との相互の稽古は、「射学正宗」の著者高穎師の示唆する処であり、自他に問 いかける課題を文章で提起し、また、 このHPを綴るキッカケにもなりました。
これから述べる事は主に「具体的な技」に関り、精神性は深く言及しません。この段階は「只管、正しい技を求める欲求」を心において、射技を学び、射の実践に臨む事といえます。「道」を唱え、人の道を学び教える事を主にする”「弓道」や「射道」”に入る以前の課程と認識します。
「射法射技の本は一つ」と云われる先哲を「リスペクト」し、先哲が示唆する所を基軸に稽古する時に、各弓術書に現れる射法射技とその規矩が ”「何故」その形になるのか”と問いを発するきっかけになれば幸いとの思いでこの早朝稽古ん資料を作成しました。当然、その問いに応ずる姿勢は、その形技の規矩の基になる道理、つまり「骨法の道理」から考察し、学び続ける事になります。更に「骨法の道理」の基になる「自然の理」に照らして考え、実践して之を体得し、すなわち「理と実」の両輪を回して自他に問い「正しい射」を自得、顕正する事になります。
はじめに 以上
視点:「打起の終り→引分の起り」の連続性
「会→離れの連続性」は最も関心を持たれる処でどの書でも詳細に取り上げられます。正面打起の型を近代現代弓道にすえた本多利実師と道法として弓道を説いた梅路見鸞両師は「離れに至る以前に来たる べき当然の結果を予知できる」との示唆があります。その具体的な技とは何かを問えば、「打起の終り→引分の起り」の連続性に視点を置く事と理解でき、早朝稽古の最初の視点として、共に学ぶ弓友に問いかけました。一射は連続しています。すでに八節を 熟知している弓友なので、当然、「打起」は連続する「弓構」と「引分」を含んで稽古は展開していきます。
先哲の示唆を以下に挙げます。全文を読んで戴けますようお願いします。
先哲の示唆:ここに正面打起の意義が見出せると学べます。
特に弓箭が無用なな時代の現代、伝統の技の事物が示す「正しい技」を自得修練する事が「正しい結果に至る」という歴史に陶冶された射の文化が示すことを、今、私達が学ぶ意味と学べます。特に仮想の中での思索混乱する世界に在って、自立した精神の陶冶に資すると想い来ります。
「打起の終り→引分の起り」の連続性
団法人生弓会発行「本多流弓術書」によれば本多利実師は
「新式射術姿勢規定」に「先哲曰、打起悪ければ全部し難し」と云われ
「射法正規上巻」に「打起の度と云うものは初心の人の知りにくき事…」
「惣身の正しき規矩に合う所まで手をあげるを曲尺とす…」と自得研究して身に着く事と述べております。
「弓術講義録」第一編第四節打起で「手は上がる限り上げ、体は沈む限り沈むるということが規則であります」と正面打起の規矩を示し
第二編第四章打起には「打起は弓術にとりて最も大事なところ」と述べております。
「中外論」に「射ぬ先から中外の変化の理を予知することができます」と述べております。
「無影心月射儀」によれば梅路見鸞師は
「射の成否は、引分けの起こりにおいて決するなり、故に引分第一段に於て、其正しきか否かを覚知せずしては行い難きものなり。・・・
・・・以上の正邪を能く覚知して行くべく、是を覚らずして引分けるべからず、必ず失を得るなり。
打起しの頂点に至りし時に、既に此の正邪は胚胎しいる」と示唆されています。
一番難しい所を先生に伺った時、”打起から引分の境”を動作でしめされ「ここだろうな」と云われた事を心にとめて稽古しております。
何故、本多師は「打起悪ければ全部し難し打起の度と云うものは初心の人の知りにくき事…」と云われるのでしょうか?
何故、梅路師は「射の成否は、引分の起りにおいて決し、打起の頂点に至りし時に、既に此の正邪は胚胎しいる」打起の大切さをいわれるのでしょうか?
本多利実師と梅路見鸞師の打起に係る見解は同じと浅学の身には愚推できます。「打起→引分が始まる境の連続性」に在って「打起の重要性」を説き、その示唆に集中して私は稽古を重ね、本多利実師が打起が連続する一射に於て尤も大切な事と述べ「何故、現代射法が自然の理を旨として、日置師の発明した”斜面打起の正しい技”の筋道の全てが”正面打起”に連綿と継続されているのか」を実感すべく私は練習しています。
これから述べる事は主に「具体的技」に関り、精神性は深く言及しません、しかし本多師の弓術講義録からは打起は深く精神にかかわっていると理解できき、又、梅路師の打起の冒頭に顕われていると愚推します。「射法射技の本は一つ」と云われる先哲をリスペクトし、その示唆する処を取上げ、「何故、その様に云われるのか」との問を互いに発す きっかけに成れば幸いで両師の示唆を取上げ、日々の相互研鑽の糧にと思い資料にしました。
「リスペクト」とは「先哲を敬い、まず、先哲の示唆に素直に向き合い、実践し体験しその上で自らに問いかける」意味で用いました。問いかける事を心がけたので 八節を学んだ方なら、何処から読んで戴いても結構と思います。
打起から始まり弓術書の各師の示唆に何故と問い掛けつつ資料を作成し、考察を述べます。「形にとらわれない、弓箭の操作にとらわれず、ひたすら、上腕の骨の向きに等しく弓を押し広げる射行」に意識を向ければ、先哲の「射の理念」と「八節の各節の境の射技」の重要性におぼろげながら心に感じ、稽古実践するにつれて弓力が増し、少しずつ 射が安定する実感をここに綴ります。
先哲の示唆 以上
余談
射は「射法八節」が在ります。「法は自然の道理に依拠する骨法一つで誰もが理解実践できる事」です。しかし、浅学の私にとって指導される方々の内容は様々に思えます。実践されている姿も一様ではありません。何故、でしょうか。それ故、本多利実師は「射法射技の本は一つ」「射が骨法から成る事、その然る所以を学びなさい」、それは昔からの方法で誰もが出来得ることを念頭に稽古する事と理解できます。師の「弓道講義」から思えば、いろいろな指導、言詮に有っては、まず、骨法の理に則して射法射技の規矩を説明と「骨法の理」に矛盾する事が無い方法で実践で示される否かを問いつつ、学ぶ事と理解できます。その一つに六分数厘での射行を日常的に示される事も含まれると理解できます。
従って「打起の終→引分けの始めの節の連続性」についても、八節全体の”節の連続性”と矛盾なく、骨法の理に随って説かれ、実践して示され指導される事と云えます。 ”打起しました、ハイ、横 に広げます”では無いハズです。このような形に捉われた弓箭の操作を、内面の力:骨力で、尚且つ、これを力学的な骨法の射の観点をとらえれば、ベクトルの力の方向性に連続は認められません。その事を”指導される方に問う事と思います。
八節の型を知り実践してこれを学ぶなら、 子供の様な気持になって 「何故!」と自に問い、先哲・指導される方に問いを発する姿勢が大切である事を心に留めて話を進めます。指導される方はこれに応ずることが現代弓道の在り方と本多利実師の示唆するところ思います。問いを発する事は教本二巻にも同様の記載をみます。浅学な身には教本からは生涯その事を為す事と理解できます。
それ故、先ずは、子供の様な気持ちに帰り、更に、乳幼児の様な気持ち、純真と云える一元的な意識に入るべきと想います。
余談 以上