技の病
技の病
弛めてあてる。矢束一杯に引かずにアテル。的を外して狙い当てる。離れを操作して当てる。など等、いずれも、骨法の理にそぐいません。
手首の浮き、右肘の浮き、弓箭の照り、鳥打の矢、方離れ、送り離れ、勝手のしがみ、手繰り、十文字の未達・崩れ、作る弓返り、手を開く離れ等など「技の癖・病」には限りがありません。加えて早や気やもたれなど「心の病」と「技の病」の両面から言われる病もあります。
「技の病」は「技の事」の項「射法八節各節詳細」にも取上げますの重複します。
自分の映像を見、弓友・先生・師から指摘を受けて「何故だろうか」と自他に尋ねます。しかし病は治らず、やがて癖の技となって身に付き当りも出て昇段すれば、問うことも疑うことも無く、ある意味、骨法の理など学ばなければ「正しい技」と思い伝えます。やがて癖の動作は骨の形も変える事になります。「骨 身に染みる」 と云われる事と自戒しています。
そのことは「射の病」で掲載しました本多利実師の示唆に続く記述が明らかにしていますので掲載します。
「弓道講義」本多利実講述:1923年大日本弓道会編(国立国会図書館蔵版) 注:明治42年大日本弓術会編「弓術講義録」内容は同じ
第一編 総説 第一章 緒論
…今射術を習うに就て一言申しましょう。
射術も前申す通り、二三百年来内続きし太平のために、寡ては中古先輩及び一流を立てし祖師等は順序を立てて学び易き様に仕組まれましたけれども、其太平につき、そういうことには余り意を止めず、唯武士には武士の職として弓馬槍剣銃砲等を学ばねばならぬという事から之をお役目的に手に取る始末でありました。されば其法則など調べるものは殆んど無いと云っても宜しい位で御座いました。それ故其頃の時代にその術を子弟に伝授する者はただ自分が先師より手真似足真似によりて得たる処を伝うるだけのことであったので御座います。されば若し師なるものが、弟子より「此処は如何様な譯であろうか」と質問を受けたとて今日の如くにその理由を一々説明しなかったのであります。否その師が説明できなかったのでございます、その当時太平の時代のことをお話するは誠に恥ずかしいことではありますが、道の為なら仕方も御座いません。
只今申上げる通り其頃の藝術と申しまするは唯形のみとなりて、法則などは少しも無頓着なものでありました。それ故子弟とも法則を探索し之を研究して見ようというものは一人もないと申して宜い位でありました、弟子はただ師より、目録とか、免許とか、指南とか、皆伝とかを得んことを望んで、之を修るという始末なので御座います。階級さえ得られればそれで満足する譯なのでありました、其術の上の規矩とか法則とかいうものを詮索し様などという考えは持たなかったのでありました、之も時勢の然らしむる所で致し方ないので御座います。
そこで今日に至れば其当時とは皆反対になりまして、総て今日は諸事共に緻密成る事が流行であるから、この芸術も其の儘という譯には参りません。
併しながら、今日では何も弓を軍器として使用する譯ではないのであるから、古と今とはその目的も自然と相違は致しているものの、苟も之を学ばんと思う人は、必ず只今の流行に従うて其法則などは根ほり葉ほりしてその術を究めねばならんのでありまするから、古の師弟の関係とは、全く雲泥の差を生じております。(以下略)
此処には「伝統の技を正しく継承する在り方」とその正反対「伝統の技を形骸化する原因」のことが詳しく述べられています。そして、その原因は「欲望」にあると理解できます。「欲望」は心の病です。次の項に「心の病」をあげます。
「技の病」が起こるのは「伝授する者はただ自分が先師より手真似足真似によりて得たる処を伝うるだけ」と本多師は言い切ります。先哲は皆、射の理を勉強しないといわれます。
「射の理に基ずいた”規矩や技”の一筋の具体的な方法を示さない、示す能力が無い事に因り」、その結果、癖を糺す「骨法」の筋道も無いので、指導する方の数だけ様々な姿かたちの対策が顕われ、学ぶ者は迷路の中をさまよい、抜け出れません。
「本は一つ」と本多師が言われるのは、ここにありますように「骨法の理にしたがう一筋の技の道」に従って「射法射技の法に適う八節の規矩の中味を伝えなさい」と云われていると学べます。新たな事はありません。総て先哲の書に明確です。それを本多師は惜しむことなく伝えると述べられています。
学ぶ者が第一に為すべき事は「意識を変える事」です。
一つは「骨法の理を自ら求めて学びつつ実践をする」事です。そのうえで、今一つは、当りの多寡や競技の勝者が技を説く言詮や、段級に依拠した技の真偽を問い、示唆される技が「骨法とどうつながるのかと問う」事です。
学ぶ者は常に問い、指導される方は謙虚にして素直に応える事、は今日の伝統の技の当然の姿と云えます。
技の病に陥らないために、すでに病を抱えては意識を変えて射に臨む事を上げました。誠に難しき事と自戒します。では、初めて弓を手にする方はいかがでしょうか。
本多師と高穎師は弓を始めて半年から一年で20kg前後の弓で「真の中を知る」と述べています。時代の状況は違いますが「早く始める」事は大切です。八節の射法には足踏みに始まり離れに至る幾多の規矩があります。射法八節を知って射を行う方は「何故出来ない無いのであろうかと問う」事より、「何故、その規矩なのか、何故、そのように言われるのか、その理由を問う」事から稽古は始まります。教本にも射を学ぶ段階が記載されていますが、出来るだけ早く始めることでしょう。併せて、教本や用いる弓術書の総てに「何故」と問い、自身で骨法の理を求めて学び、具体的技を検討、実践に臨む事が稽古の姿勢です。
「何故」と先哲の書に問い、不明は指導される方に問い、弓友に尋ねます。指導される方は素直にして謙虚に応じられます。指導される方は骨法の理を説いて、具体的な規矩が何故、必要かを説明し、弓の強弱をもって実践して提示される事と学べます。