射の病
射の病
「スグにでも、紙的を射れる弱い弓で筋力に頼り八節の外見だけをなぞり、美しく引けて当たりを繰り返す癖をつけては射の真意はわかりません」と先哲諸師は断言され、竹林坊如成師は「尾州竹林派弓術書・射の病」に記しています。
概要の冒頭に「射の病」を載せざるを得ないほど、根深い事で、近代・現代の夜明け迎え、現代弓道の道を開いた本多利実師は祖師竹林坊師の意思に鑑みて、「射は射て成る事と思い、骨法の然る所以を知らず。故に、射る程 益々病い深く骨に入りて 終いに射の理に遠ざかるは哀れむべし」と射の真理と射の根源的な病を述べています。
その根源に弓の強弱が関係している事を説明する事がこのHPの主題です。それが「形に捉われる病」で、その様相は「弱い弓で見える形を筋力でなぞり、射行中に詮索しながら迷い苦しむ、輪廻の弓と云われる射の病で終い弓が引け無くなる病」と理解できます。
射の病を「技の病」と「心の病」に分けて記しますが、その根は総て「心の病」です。
骨法の理を究めない方は見える姿・形等、規矩の静的な状態を比較して「技の病」の症状を述べる傾向にあります。
射の理を学べば先哲の書にその対策がすべてが明らかです。
内容は極めて具体的で、連続する動的なわざを、現代の力学や骨格論などに匹敵する具体性があると思います。説明できない事は言葉で述べ難いと謙虚です。
例えば「右手の手繰り」の病はいかに直すかについて具体的な方法を私は聞いた経験はありませんでした。
具体的方法の一つの私的見解は
「骨法の理を説いて、その理にしたがって、弦と右手と右手首と右肘と骨法の弦道に係る動的な技の関係を、先哲の書の記述を示し実践をもって示す事」です。このことは竹林派弓術書に総て明確な事であります。
射の病の治療方法は「”正しい技とは何か”という問う射手の心の姿勢」が課題になります。それ故、弓を学ぶには先ず第一に心を正しくする事と先哲はまず云われます。
明治末、封建時代から西欧文明開化の社会が進む中で、射の真理と射の病を学ばず形式だけ指導するため、ますます射の病を蔓延させる危機感について述べておりますので、ここでは、弓道をする人の傾向について本多利実師がつぶやかれた事を二つ取り上げます。
「弓道講義」本多利実講述:1923年大日本弓道会編(国立国会図書館蔵版) 注:明治42年大日本弓術会編「弓術講義録」内容は同じ
第一編 総説 第一章 緒論
抑(ヨク)も弓術なるもの、之が諸君も御承知の通り、弓は我国にとりては誠に太古の時代より用いられました武器の一つで御座いまして、年と共 に進歩して参りました。然る所維新前太平が大凡二三百年も続きましたから、自然と弓術も名義と形だけが残り、それが今の世に伝わって参ったと申してよいので御座います。之れ単に弓ばかりでなく、已(スデ)に弓馬槍剣銃砲と申し、又柔術他あらゆる技藝、技藝と申せば色々ありまして俗に十八藝途さえ申程ありますけれども、其中で最も誰にも真似のなし易きは此射術であります。一体此射術が真似なし易いと申しまする訳は撃剣柔術などと事かわり、初めより痛いとか、苦しいとか申すことが御座いせぬ為めかと思われます。それに又今日西洋式の運動の流行盛なるにも拘わらず、弓術は運動としても誠に結構なるものと認めらるるは、独り弓術大家若しくは医師等専門家の説のみならず唯の素人も唱える様な次第であります。実に弓は身体各部の運動としては極めて結構なる品でありますから、夫れ等も今日盛に行わるる理由の一つかと思われます。故に当節は案外弓を採る人が多くなりました。今後に於ても日に月に益々盛んになる事かと存じます。今日射術を習うに就て一言事申しせう。(以下略)
第一編 総説 第二章 修習の順序 第一節 弓を学ぶにつきての心得