六道の病
”六道と云いて弓に苦みあり輪廻の弓とて事行いひがたし輪廻の弓は射形の迷也離れがたき事也 故に事行ひがたしと云へり”(※)
尾州竹林派弓術の射の心構えに現れる竹林坊如成師の指摘です。射法訓もこの系譜にあります。
六道の病
”六道と云いて弓に苦みあり輪廻の弓とて事行いひがたし輪廻の弓は射形の迷也離れがたき事也 故に事行ひがたしと云へり”(※)
尾州竹林派弓術の射の心構えに現れる竹林坊如成師の指摘です。射法訓もこの系譜にあります。
骨法の道理からはずれ、射形に捉われば、筋力で恰好を作れる弱い弓を選びます。それは、射形が出来る基本を学ばない病と云えます。本多利実師は弓箭が無用の新しい時代の弓術、弓道の書にも「六道輪廻」を記述し対策に「剛無理」を載せています。世阿弥の「能の教え」にも「型・形」を学ぶ時の”弱くならない事”が記述されていますので掲載します。先ず、竹林坊師の教えに関する本多師の記述を学びます。(※):「本多流始祖射技解説」財団法人生弓会
「六道の病」を見ますと、一つが明らかに強い弓の病で、あとの五つは弱い弓の病と云えます。その原因は「形を真似る射」または「人に見せる射」などの病で、弱い弓で当てて綺麗に見えるよう動作して段や称号を取る等の欲から来る病で、病の根に潜むよこしま(邪)な心が知らず知らずのうちに”まやかしの射を蔓延させる”ことに警笛を鳴らしていると云えます。はじめに本多師の記述を上げ、次に竹林坊如成師の記述をあげます。
「弓道講義」本多利実講述:大日本弓道会編(1923年)( 注:明治42年大日本弓術会編「弓術講義録」と同じ)
第三編射術細論 第三部括論 第三章 「六道輪廻」
弓も六道にはまったならば何分上達が出来ぬという譬を申したので御座います 六道輪廻とは僧侶の申す仏語で御座います。 然らば六道とは何かと申せば、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道の六つを申します。此六つは能く僧侶の説教などに用うる言葉で御座いまして、其例を取りて 弓の癖や病に名をつけたもので御座います。兎角弓は毎々から申す通り精神が七分で形が三分であります。則ち精神の方を重に使います。従って 精神から起こる病癖も多いの御座います。それ故これを悟った上はこれを未然に防ぎ、又は矯正せねばなりません。
一 地獄 地獄ということを弓を射ることに就いて申しましたのは、未だ巧者とはいわれぬ初心の内から、兎や角と自分の射形を気にして迷い苦しみて安じて弓を射ることの出来ぬ様を申します。誰でも自分の悪いというをが知れるときは、彼方か此方かと考え、彼れ此れと気を揉みます。之れ仏語で申す六道輪廻の中の地獄であって、常に迷い苦しむ人につきて申します。弓にしても同様で碌々未だ修行も積まぬ中から射形などばかり迷い苦しむ人を戒むる為に設けましたのであります。
二 餓鬼 自分では立派な骨格を持ちながら、夫れを己はさほどには思わずして、却って自分は力なき様子をして、力相当よりは弱き弓で無ければ引けぬ様を致すことを、この弓の方に餓鬼と申します。即ち、充分の力を持ちながら弱き弓を好み、何か高尚らしくして申して修行に苦しむのであります。技術の修行が積まぬという事は顧みずして、ただ自分の体力の足らざる事のみ思い悲しみ嘆くを申します。
三 畜生 これは餓鬼とは異なりて、自分の修業の積まぬを顧みずして、無理に矢束など引きたがり、頻りに上手を真似る風のあることを申します。つまり我芸の未だ熟せざることは知らずして、唯に巧者の人の真似をする考えにのみ心を注ぐことで、即ち貪る考のあることを畜生と申します。
四 修羅 彼の仏者の申す修羅と同様で一口に申せば殺伐の有様を申します。即ち餓鬼とは反対で自分の力にあまる弓を引きたがり、自分の力では届かぬ處へまでも矢を飛ばしたがることなどを申します。何れも心おだやかならぬ弓の病ではありますが、此の方は色々に気を揉みまして、遂には怒り出すという様な気味のある弓の病で御座います。
五 人道 人道とは余り活気もなく、心ゆるゆるして居て、凡て延びやかにのみ心得ておりまして之れと確かな處なく愚図愚図して居ることを申します。矢数を多く引き修業を積んで早く達者になろうという心などは 更にないことを申します。所謂優々閑閑として唯弓をてにするというばかりで、定まりつかぬ人を申します。物にあせらず、せまらず、む しろ無頓着なものを申します。斯様な訳では弓の成熟するあてもなく、結構なる弓の発達は見られません。唯優々閑閑と射る丈けに止まります。依て適当なる名の付けようもありませんから、仮に人道と申すので御座います。つまり形の上ばかりを真似て、精神をこめて法則を考えてこれに據るという様なことは更にありません、之も誠に悪しき病で御座います。
六 天道 天道とは至ってはや、すなほなものであります。之は技は人道に似て居りますが、其精神は人道とは大きに異なっております。人道の方は唯弓を引くというだけありますが、天道の方はそれに付け加えて、すべて延びやかになり過ぎて弱くなる気味が御座います。且つ綺麗に射て見たいという念慮の離れぬ事を申します。一つ好き強みのある冴えたる矢を放して見ようという考えは無く、唯一心に美しく美しくとばかり思い煩うことが天道の病で御座います。
以上は弓を習う間に起り易き病癖を仏語の六道に言葉を借りてお話し致したもので御座います。即ち弓の射形に迷うものはいつも気分落ち付かず、タエズ益なき苦労に心を悩まします。之を直すには、次章に申します所の草菅勝穀にていたします。
「次章に申します所の草菅勝穀にていたします」に随い第四章と第五章「剛無理」を掲載します。
第四章「草菅勝穀」については高穎師、竹林坊師、本多師、梅路見鸞師の先哲四師が述べております。四師は射の理が明確なので「草菅勝穀」の項を設けて考えたいと思います。
本多師は発病する「一人一人の射の病根」を「田の稲が、稍ともすると草菅の方が蔓延して大切の穀草を枯らして仕舞う」と例え、以下に「草菅勝穀」を記していますが、弓界全体の課題をも暗示する姿勢が私には受け止められます。この視点:”稲田の様に見えて、その実稲田でなくなってしまう事の危惧”は梅路師の「射の様であって射ではない」との指摘に受け継がれたと思います。 射法入門 ”わざにとらわれず、ましてやかたちにとらわれず”との示唆や教本一巻 射法訓、宇野師 ”弓箭の操作に捉われず、筋骨を以って力行する”との示唆を思い起こします。
また、本多師が「六道の病に陥らない様に射人に示唆された ”剛無理”」は、尾州竹林派弓術書の記載の順序にとらわれずを第五章「剛無理」に据えたの、大変意義深いと思います。本多師の記載順序の従いここに記載します。
第四章 「草菅勝穀」
草菅を文字の通りに解釈いたしますれば、くさやすげでありますが、此處では草菅ということを雑草即ち田畑の稲苗を害し荒す所の草を申します。この草は稲よりも生長 早くして、採っても採っても生いる誠に厄介な草であります。されば常に抜いては捨て抜いては捨て少しも油断なく此草の根を絶やすように務めねばなりません、稍ともすると草菅の方が蔓延して大切の穀草を枯らして仕舞うか或いは枯れぬまでも痩せ衰え見る影もない様になります、そこで草菅勝穀と申します。弓に於て病癖が即ち唯今申す草菅で御座います。此雑草の名も大抵お話致しましたから、弓に就いてどれが作物であるか、又雑草であるかの見分けも付くことと存じます。そこで雑草を知ったならば、
第五章 「剛無理」
剛無理と申すことは文字の通りで剛は強い事でありまして強い事には理なしともうします。弓は成る丈け強弱の中にも強きことを大切といたします。何処までも強く、その強きには何の分別もなくひたすら強き嗜めと申します。強きことにはあき 足らず強かれと申します。蓋し何れかと申せば弱いところある為往々病癖の生ずるものですから、強きを専一にせよと申すことで御座います。
尾州竹林派の記述