境界と中心
境界と中心
海と陸の境界、干潟の重要性が問われるまで、秋田の八郎潟、有明の干潟が失われそこに出来た農地が半世紀もしないうちに変容してしまっては、干潟が生まれ、干潟に育った数千年数万年の月日と多く生命にとって、人が干潟を埋めた事はどのような意味を成したかを考えさせます。
異質な海と陸の境界にあって、太陽と月の運行に伴う日々の潮汐の変化と年月の環境の変化には、ある種の周期性と規則性を内在しつつ物質や生命体に必然的な機能を形成せしめ、その相互関係の総合性こそ自然の自然たる所以であって、人智は最小限のかかわりから、関与する時間を超え、関与する空間をこえててこの境界の課題をとらえなくてはなりません。
汽水域を持つ干潟の変化の周期性はやがてここを通じて海中に留まるモノ、陸に住むもの、真水に住むもの、干潟や汽水域に留まるモノ、真水と海中を行きかう生物など、様々な生物がその中心を定めその本分を尽くす事で成り立っていまする。人も又その本分を尽くさねばならない。では人の本分とは何か、今こそそれが問われている時は無い。物質で云えば、地球に接する宇宙にはごみがあふれ、大気には微細な人工物があふれて大気を変質させ、生物体は勿論、人の臓腑を病み、穏やかなる大気のエネルギーの循環による均質性を乱し、海中水中地中にもゴミはあふれている。全ては人の仕業で、それもわずかここ百年の事とと云えます。
自然界にはもともと境界など無く、ヒトも又その一部との基点から俯瞰する事が近代現代の価値観基本課題なのでしょう。干潟と同様に地球と宇宙の境界にはオゾン層があります。身体の内部器官の境界には体液が存在して細胞の境界には膜があり代謝は常に生体の全体で行われ恒常性と変化の相互関係にあって存在していると思います。加えて個体と集団のありようは自然の変化に対応する生命体の持続性に係る本源であり、人はそこに文化と文明を形成した思えます。そこにあるのは無意識の世界か記憶を呼び起こす意識の機能であって、それも今は人工知能に代わっては、生命はメリトクラシーの予言通りに効率こそ世界の要となり、自然界の自然の理と錯誤する過ちを犯す事になると予測されます。
冒頭の前科学的ないし後科学的認識には境界にある干潟の認識、つまり境界を正しく認識する事に因り、境界等もともと無い認識を意識した上で「かたかたちわざ」を究明する立場も存在する事を前提に考える必要があります。振り返って伝統の技と向合いその真理を問いかけて学び、実際に手に取って実践する事に去来する自分の本分は、為すべき自分がどこに居るか、自分の心を問う事に外なりません。かたかたちわざの起きたる道理を知って「正しい技・行為・動作」を心にを止めて、実践に起こる瞬間の意識の正雑、心の正邪を「直」に実感して己の心の所在、為すべき本分を知らしめる力が伝統の技に在ります。
しかしその道がある事、存在する事は分りますが、如何にしてその門をくぐるのかつまりそこを行きかう干潟の様な境界がわかりません。
「かたかたちわざ」の世界から「型形技」を切り出し、自他の境を明瞭にしつつその価値意識を中心据えて自他を分断しては、無意識の中の意識は常に遊離して生に活きずく欲求と利に取りつかれた欲望の間を彷徨うのでしょう。
伝統の型形技の世界にある予知の能力はその分野の自他の境界をこえる認識と云えますが、無意識に世界から記憶を呼び起こす意識の機能は限定性はその意識の修練の在り方拠るモノで、入口の存在は感じますが、何処にあり、どのように辿るのかは、今の私にはわからりません。歩いて来た道が全く違うのか知れません。自他の境界にあるモノ、二元論的認識と行動、一元論的に認識と行動を行きかうことが可能な境界を経験しているほとんどすべての人類にとってその境界に如何にして常に立つか、如何にして自覚できるのか、それは何か。因果の世界にいては分らない事と竹林坊如成師に云われて納得すべき事では無いのであろう、と想い、” 百歳をはるかにこえてやっと一点一画が生きる ” と北斎が言われる如く人の技には無限の可能性がある事を心に思い描くままで、尚、実践して学びつ続ける事と今は思います。