ベクトル と 骨法の「直」と「直に育てる」
骨法の定義とベクトル
ベクトル と 骨法の「直」と「直に育てる」
骨法の定義とベクトル
考察:定義の力学的解釈
弓の復元力を用いて、重力下の地上で矢を飛ばすのですから、その状態を科学的に考える事ができます。科学思考の無い400年も前に、竹林派竹林派弓術書の定義はその論理の基礎になっていると学べます。専門ではありませんが、現代弓術書も力学的な記述も見られますし、教本もそれを薦め「反動力」「直動力」等の言葉を用いています。
竹林派の「骨相筋道」の定義は、射手に連続して、常にかかる力”重力と 弓力”の二つの圧縮力(荷重又は外力)受けて、射手 が対応する(反力又は内部応力)の関係について述べています。大地の上の、「骨法の射」の「理」は射手と弓箭の力学的なあるべき状態は「直」で、動作は骨格を「直なる状態に育てる」事と定義しています。
これは射に臨む射手の意識の在り方を云っています。定義の如く、体から出る力を働かせれば射形が現れると学べます。現れた姿が先哲が実績で示した効果の射法八節の姿であれば「正しい技」の要件の一つになります。効果とは六分数厘の弓を射て繰り返し正確に的中し鉄壁を貫き、4ー500mも矢がと飛ぶ事といえます。弱い弓で八節の外観の姿を意識して弓箭の水平、垂直 等を筋肉で操作して、八節の型、形を真似るのではありません。
サブペイジに 中味とその姿、弓懐の力点支点作用点、ベクトルと両手の内、捻じれとモーメント(力と筋力)を考察します。
「直」のイメージ
「骨法の直なるを直にそだて」のイメージ
「曲がれる骨おば其の理に随いて」とありますように骨格は直線的ではありません。
骨も曲がっています。骨と関節は筋膜と筋で連結されて可動しますので、ここに「直」という線をイメージすれば、関節を点として 骨格の中、骨の中を通ずる力:骨力を線で考えます丁度、磁力のように見えない「力線」がイメージします。
当然の事ですが、的正面や脇正面など平面ではなく立体的にあらゆる方向から「直」をイメージする事です。関節と関節前後の射手が弓・弦に作用する押す力と開かれた弓・弦が射手に作用する反作用の力(圧縮力)を、関節点での力学のベクトルで考えます。
ベクトルには方向性、作用点、力の大きさの三つの要素があります。八節の射法射技の本「骨法」の弓力と重力を受ける力「骨力」も方向性、力の大きさ、作用点で考察できると理解されます。
骨法の理は骨力を「直」に働かす事で、例えば弓手手首の関節点を考え増すと、「直」は中押しと云えます。押すのはどこか「つまり力点はどこかを問います」「押すとはどの方向かをといます」
例えば弓懐が出来た骨格をイメージして両肩根の関節点から「直」に押すとは、両上腕の骨の向きに押す事と理解できます。これらは皆、横軸の重要な関節点の「直」と云えます。
もう一つは縦軸です。重力に抗する力線:骨力を考えます。背骨、頸椎など縦軸をなす骨格の関節点は常に下向きの圧縮力:圧迫を受けていますので上に伸びる意識で骨力をイメージして動作することが必須となります。結果、上に伸びる方向性のベクトルと下に向かう重力の方向性のベクトルで静態となります。結果、「直」とい概念で自然に中心が生まれます。
上に伸びる意識で中心は自然に生まれるのであって、作るのではありません。何故なら射手の姿勢は静態です。外見上静体で動きません。どのように上に伸びるかは、本多利実師と梅路見鸞師が具体的なので 別途、記載します。
「直」と云う力の伝播
骨力の伝播は”骨に支えられ、自在に動く関節を通じて次の骨に伝わり”ます。力は全骨格を通じて、両肩根から腕の骨格を通じて、弓と弦に伝わり」ます。力の伝播は「弓を押し開く方向に、骨・関節・骨を貫通する力が「直」に通る」事が骨法の必須の要件です。
しかし、その線は平面上に定規で引いた線の様に真っ直ぐに突っ張った線ではありません。立体的に見た骨格は曲線の組合せです。「曲れる骨おば骨法の理に従って使う事」を示唆を関節点での骨力の伝播を力学的に考えねばなりません。
曲線上にある関節点の作用と反作用のベクトルの方向を考えるには、関節点に接線をイメージすることが必要です。その接戦上で関節点の作用・反作用の力の状態を考え稽古することになります。
一射は連続して動いていますので、現在身では肩関節→肘の関節点は常に動いています。過去身、及び手首から手の内のベクトル的な考察は別途記述します。
「直の伝播」とは、弓の反動力(縮むベクトル):反作用の方向と 射手の直動力(開くベクトル):作用する力の方向性が関節点の接線上で正しく向合い在っている事と理解できます。
「伸びて縮まず」とは、動的な連続性を意識して伸びる方向は「射手の押すベクトルの力の大きさ」 > 「弓の縮むベクトルの力の大きさ力」と理解できます。
条件があります。骨と骨の間隔が一定である事=関節が自然である事、が要件に入ります。縦軸を想起して見てください、普段 歩あるいて時、立っている時など力は意識しません。自然なのでしょう。”」背中が丸まっていますよ”と云われるのは重力に負けて脊椎頸椎の骨が曲がっているので、伸びて骨を真っ直ぐにする筋力は意識しますが、重力を受けた体重を支えるのは「骨力です」。背筋の骨を「直」にする方が本来生体エネルギは合理的に用いられている云えます。
その第一は素引きで「足踏み」を第一に稽古しなさいと云われる本多師の教えと学べます。
「直」では無い状態
関節点の射手の骨力のベクトルの方向性と弓の圧縮力のベクトルの方向性がずれている事と理解できます。ズレは捻じれになり、力学的にはモーメントを生じる事と云えます。
「直にそだてる」とは
「骨法」を理解するとは、内なる力に目を向けて動作し、現れた姿が射形と意識を変える事で理解できます。
射形(射手と弓箭を合わせた姿)は作るのでは無く、骨法の指示する内なる力で現れる姿が「法」に適う射法で、日置師、竹林坊師らが射法八節と、便宜的に八つ区分して説明し、指導したと学べます。
随って「直に育てる」とは「連続して弓・弦を押し広げ続ける事」ことと理解できます。課題は八節の変化点の連続性を力学的に骨格構造的に、呼吸や意識など生理的にどのように射手自信が学び、自分の見方で統一するかになります。
最大の課題は肩関節点(力点)の射手の力の方向性、特に、両肩根から押す方向性で、弓構えから打起しのはじめ打起しの頂点から引分けの始め力の方向性と、その方向性の育て方の重要性を先哲の記述からから理解できます。
以下、十文字と弓弦の作用点の二つの視点から考えます。
動態としての十文字を育てる事
この縦横の十文字は弓術書に必ず現れ、尾州竹林派弓術書は「総十文字」と示し「正しい中」的中の基礎になる骨法の理と学べます。「直」が育って行く先は会から離れ・残身の動態として「骨力」が連続的に伸びて、骨節がもうそれ以上行けない極地にあっても、伸びるベクトルの方向性があり、限り無く十文字に近ずく動態を云っています。離れは、中からの力によって生まれるのであって、形を真似て行う事では無いことを骨法の射の稽古では理解しなければ成りません。前者には自然の離れがあって、後者の停滞した放す離れとなります。前者は伸び、後者は、停滞、緩みます。
剛弱:「直」では無い状態から生まれる知覚
弓力を感じ、筋力で骨力、関節の曲がりねじれを補足する事
剛は正しき技で力を感じない事、弱は弱い事で力を感じ、正しい技を学ぶ意識が無ければ当たりに走り弱い弓に進む
尾州竹林派弓術書 中学集 (財団法人生弓会蔵版)
第三 強弱の事射形に限りて万事にある義
射形の万事に強弱と云う事弓手にあり馬手にあり手の内にあり会にあり惣体にある内に中りを窺う肝要は弓にもたれぬ要にと云う事を強とす弱は骨法不行を云うなり…… 」
尾州竹林派弓術書(財団法人生弓会蔵版) 本書 第一巻 序
「・・・・・弓形も右の如く強き処を柔げ 弱き処に強みの附くようになおせば自然と能き射形となる也 …… 」
本書 第二巻
骨法不行射疎屋如騒少風 骨法は骨の筋道のよろしき所を云う射形の元なり
中学集 第三
強弱の事射形に限りて万事にある義也
射形の万事に強弱と云う事弓手にあり馬手にあり手の内にあり会にあり惣体にある内に中りを窺う肝要は弓にもたれぬ要にと云う事を強とす弱は骨法不行を云うなり…… 」
強弱:「直」では無い状態の知覚
射手の押す方向と弓弦の圧縮する方向のズレはどのように知覚されるのでしょうか。はじめに尾州竹林派弓術書では弱い弓ではこのズレを知覚出来ないと示唆しています。
総体に強弱があると云っておりますので、約260ケ所の関節 のどこにズレが生じているを知覚する事になります。
射の失敗=失は、弓を押し開く時に形に捉われる意識が
正しく弓を押さない事に因り、
関節間の骨のズレに拠って生じます
増大する弓力が真っ直ぐ体の縦軸から不動の中心に入ってきませんから、途中の筋力で対応します。
ズレては「直」に成りません。それを射を行っている最中に知覚し、意識を180度かえて、弓の照り、鳥打の矢など気にせず先ず正しく押す事でしょう。では正しく「直」に、そして「直を育てる」押しは骨法に従ってどのように押すのでしょうか。
又、弓を握り締めると手首が曲がり,弓を押すほど、筋力で押し戻そうとして重み:力を感じ、痛みを感じて崩れ、弓を引けません。柔い弓はそれでも引けますが強い弓は引けません。アタリと射形を作ろうとすれば弱い弓へ弱い弓へと志向します。
射形を気にせずに素引きのように押し開く射技が修得されるにつれて関節のズレは少なくなり。それには弓と弦の接点の両手の内の骨法の理に基ずく技が必要です。神永師の三角の手の内は、一つの示唆でしょう。ズレ生まれる力の小さくなるので、少し強い弓が引けるようになります。そうして少し強い弓へ、少し強い弓へとと上げて稽古して、自分の骨格則した骨法の「直」を行射中に知覚します射法八節の規矩に適う射形が自然あらわれます。
竹林坊如成師の冒頭の記述の事です。
強弱を覚知して一射を尽くす
「直」では無い状態その対応」は「尾州竹林派弓術書」「本書第一巻」「序」に始まって、同書の重要事項の一つと理解できます。
歪みの「癖」は射行中でます。射行中に知覚し、いかに一射を尽くす完遂するのでしょうか。先哲は射手の心象にそって明断しています。このテーマは自分の事になります。私の常の射の風景です。
連続が射の技の絶対条件ですから、「失」知覚したらそのまま、残身迄必死に弓を押し広げる事に専念して一射を尽くし、残身で、矢飛と矢処を確認します。射行中に射の内容(両手の内の状態、弦道、矢束一杯、離れなど等)の知覚と、結果:飛と矢処を正しく確認、謙虚にその結果・事実を自覚すれば、成功といえます。勿論、的中も、外れも多々ありますがそれが射行中に意識された技の正雑、心の正邪が反映されているとちかう出来れば,中外関係なく成功と学べます。規矩に適わなくとも弱い弓で繰り返しアテル熟達者になれば射行中にあたり外れを知ることが出来るのでしょう。高穎師がそれは伝えるべき技でなく、その方だけが為せる射といえます。
本多利実師は射行中の覚知について次のように云っております。
本多利実師口述「中外論」大日本弓術会編「射道」大正二年 (財団法人生弓会発行「本多流弓術書」ヨリ)
「…前に申しました竹林派五か条の法則を守り、果たして其所に至りましたなれ射ぬ先から中外(アタリハズレ)の変化の理を余地する事ができます。そういう訳でありますから真の修行をしては中らぬとか、矢束を取れば中らぬなどと申すは何れも間違った話で御座います。…」
竹林派五か条:「中り」「矢早」「通心」「遠矢」「花形」。
尾州竹林派弓術書(生弓会蔵版)
「本書一巻、 一 始中終法度の事」に稽古の始めから「中り」と「矢早」を修行しなさいとあります。本多師は”射の事はこれ等をひととおり稽古して分かる事”と述べてます事から、当然、「強い弓を射こなせねば骨法は理解されない」と学べます。尚、「花形」は修行を積んで為される事を本多師は述べております。全文を読んで理解願います。
竹林派五か条:「中り」「矢早」「通心」「遠矢」「花形」の事。
尾州竹林派弓術書(生弓会蔵版)
「本書一巻、 一 始中終法度の事」に稽古の始めから「中り」と「矢早」を修行しなさいとあります。本多師は”射の事はこれ等をひととおり稽古して分かる事”と述べてます事から、当然、「強い弓を射こなせねば骨法は理解されない」と学べます。尚、「花形」は修行を積んで為される事を本多師は述べております。全文を読んで理解願います。
八節の射形を真似て矢を射るのでは無く、骨力を直に使って現れる姿が射法八節の姿になる。弓を手にした初心の時、最初に学ばねばならないと、経験から申し上げます。先ずは、射には「射」には方法がある事を知り積極的に読み学び自分の理解を明確にして、弓を握りしめず、弦をつかまずに、骨の向きにおしひろげることを伝えることが大切と理解できます。
それでも必ず、竹林坊師が言うがごとく、バランスを欠き内なる力の強弱を知ることになります、それを骨法の理に随って指導される方が、どのように正すか、それによって初心の方の歩む道は大きく決まります。
弓箭の姿にとらわれないことを思えば「射法訓」の”弓を射ずして骨を射る事”も竹林坊師の云う事も自ずと明解になります。詳しくは射法輯要に記載されています。