技にある無意識の動作 

動物や植物の生態行動を映像などで見ながら解説を聞くと「動物の技」人間の技と同じ様に意識があるがごとく表現されます。しかし、人の「本能的な行動」と無意識な動作は常にあります。そこに心の純真さ感じ、俗っぽさを排除して感動とうけます。子供の行動はたびたびあり、初心者の技の動作にもしばしば素晴らしい感動をうけます。

道具を用いて幾年も同じ動作をする熟達した偉人の所作は「動作の始る以前から、結果はすでに始まる前にあり、すべては”当然の事”に従って今が尽くされる」と云われます。全てはその人の当然の機に従って生じる事、人以外の生物にとっては当たり前の事と云えます。自分と周囲の乖離は無く、正確性とか再現性等の評価は本より無いと云えます。そのことを意識して心に修め、生涯、技を究めつつ純真さを深め、その時々の為すべき今を尽くす事と、先哲は、皆、そのように云われます。

いくつかの禅の著作から示唆を受ければ、そのような状態禅的な事物の接し方と私には理解できます。二律背反の科学的な確証の背後にある不確定の不安、出口のない処に、一つの方向性を示唆していると学べます。鈴木大拙博士が云われる、前科学的 又は、後科学的無意識に在る実在への接し方、決して、二律背反の分析認識が指摘する、恍惚の状態や異常な状態 ではないと理解され、むしろ社会の真心としてゆるぎない意志のもとに実践行動される導師を見る気がします。

伝統の技に接し、その道理を究め、純真に、つまり幼児が初めて周りの事物に接し、さらに言えば知識も何もない状態、無意識にして自他を超えた一体の世界を呼び起こす、ないしは覚知する力が、伝統の型形技の中に在ると、私には知識で意識されます。幾千年の歴史に陶冶された叡山に見る回峰行のシステムもまた、その一つと思えます。

人の行動の道理のもとを尋ね、様式や形式のもとになる行動の型そのものの存在理由を問う事は、ものを生み出す技を学ぶ人にとって当然帰結する問といえます。否、モノを生産するすべての人が対峙すべき課題と云ます。 

事物を生み出す日本の技の中にある何か」は、型・形や技に捉われず、自分の心に目を向けてこれにとらわれず、むしろ意識を離れ、否そういう意識さえとらわれず、自他が自然と一つの存在として覚知させる筋道を践する技の中に存在している事をこと証明し続けていると云えます。

実践行動する時に、欲望と欲求のハザマの心の軸に、善し悪しの二律に浸って認識する世界感から、いかに出るか、その課題に向かう具体的方法の一つとして、伝統の技の修練にあると感じ取れるので、その入り口を求めて「正しい技」の筋道を意識し続けます。


                                           以上