素引きと矢番え動作の違い
素引きと矢番え動作の違い
本多利実講述「弓道講義」大正12年大日本弓道会編:国立国会図書館蔵(又は明治42年本多利実著「弓術講義録」)
「第一篇 総論、第二章修習の順序 第二節 素引」
「…つまり矢を番えて引くのと素引きとは大に具合が違うから、之を素引きのときと同様になるまで練習せねばなりません、それで矢をかけて引いても全く素引の通りに引ければ、規矩にもはづれず、姿勢も自然出来るのであります。…」
以上
高穎師著「射学正宗」:廣道館発行「武経射学正宗同指迷集譯解」大日本武徳会弓道教士小澤瀇譯著 弁惑門序ヨリ
「年 力 未だ衰えず 而して 弓を引くこと満たざる(矢束一杯に引け無い:※)者は乃ち 俗にいう毛病(癖)にして 力衰えるに非ざるなり 年老いて 力衰えて 弓引くこと満たざる(矢束一杯に引け無い)者は 空引き(素引き)も亦満たず(矢束一杯に引け無ず) 的に対して矢を発つも亦満たざるなり 若し 毛病(癖)を犯して満たざる者は 空引(素引き)は即ち満ち 的に対して矢を発つ時は即ち満たす事能わず 此を毛病(癖)と為す 極めて去り難し 今の人 此の病に坐する者 最も多し」以上
※(・)は意訳。以下に意訳します。
(若いのに矢束一杯に引けないのは力が無いからではなく、骨法の正しい技を理解し無いからです。歳とって矢番え動作で矢束一杯に引け無い人は、癖が身に染みて引け無いのです、ですから癖がついては、素引き動作でも矢束一杯になりません。
骨法を知らず又は無視して癖の技をつけては、素引き動作は矢束一杯になったとしても、矢番え動作では矢束一杯になりません。骨法の基本である矢束一杯の「中る射法射技」を修練せずに、矢束一杯に引かないで「当てる射」の癖は、極めて治すことができない癖なのです。射を学ぶ人の最も多い病です。)
本多利実講述「弓道講義」大正12年大日本弓道会編:国立国会図書館蔵(又は明治42年本多利実著「弓術講義録」)
「第一篇 総論、第二章修習の順序 第二節 素引」
「…つまり矢を番えて引くのと素引きとは大に具合が違うから、之を素引きのときと同様になるまで練習せねばなりません、それで矢をかけて引いても全く素引の通りに引ければ、規矩にもはづれず、姿勢も自然出来るのであります。…」
以上
高穎師著「射学正宗」:廣道館発行「武経射学正宗同指迷集譯解」大日本武徳会弓道教士小澤瀇譯著 弁惑門序ヨリ
「年 力 未だ衰えず 而して 弓を引くこと満たざる(矢束一杯に引け無い:※)者は乃ち 俗にいう毛病(癖)にして 力衰えるに非ざるなり 年老いて 力衰えて 弓引くこと満たざる(矢束一杯に引け無い)者は 空引き(素引き)も亦満たず(矢束一杯に引け無ず) 的に対して矢を発つも亦満たざるなり 若し 毛病(癖)を犯して満たざる者は 空引(素引き)は即ち満ち 的に対して矢を発つ時は即ち満たす事能わず 此を毛病(癖)と為す 極めて去り難し 今の人 此の病に坐する者 最も多し」以上
※(・)は意訳。以下に意訳します。
(若いのに矢束一杯に引けないのは力が無いからではなく、骨法の正しい技を理解し無いからです。歳とって矢番え動作で矢束一杯に引け無い人は、癖が身に染みて引け無いのです、ですから癖がついては、素引き動作でも矢束一杯になりません。
骨法を知らず又は無視して癖の技をつけては、素引き動作は矢束一杯になったとしても、矢番え動作では矢束一杯になりません。骨法の基本である矢束一杯の「中る射法射技」を修練せずに、矢束一杯に引かないで「当てる射」の癖は、極めて治すことができない癖なのです。射を学ぶ人の最も多い病です。)
素引きと矢番え動作の違い
本多利実講述「弓道講義」の初めに表れる教えです。今は、最も大切な示唆と心に留め射場の一射を尽くせるよう稽古しています。八節を知り(※)、射形に捉われずに、只管、弓・弦を押し開く事と理解しました。その結果、現れた姿が射法八節の姿・射形になると理解できます。形を意識して作るのではなく、弓箭を押し広き続ける一心、自分の内なる心、意識を見つめて、押し開きつ続けることに専心すると理解できます。ではどうすれば、書物に記された八節の姿になるのでしょうか、それが課題です。(※弓を射るには射法八節の「法」がある事を初心に教わる事実。と解釈しました)
明治22年本多利実師は「弓道保存教授及び演説主意」で「射は骨法に基ずく」と弓道を糺し、正しい指導を受ければ「 ひと月で骨法を知り、ふた月で射形が調い、み月で弓力が増し、よ月で味わいを覚え、五つ月で調子を得、六ヶ月で真の中を知ります」と述べています。本多利実師が良き師を得て正しい順序で稽古すれば「的に向かって薄六分 (約20kg程度か)の弓が愉快に引ける」との師の記述からも、「 六ヶ月で真の中を知り」、射の道 の入り口に立ち、六分・六分五厘・七分と自己の技量に相応の弓箭を求めて先哲の究理した筋道に向かい歩み始めるのでしょう。その道程に「射法訓」の示唆に必ず触れると、今は思います。
高穎師も「射学正宗」で「素引き」の成否と骨法の基本要件「矢束一杯」ついて同様の事を述べています。
初心者が弓箭を手にして半年から一年で20kg程の弓が楽に引けるのであれば、熟達者・指導者は、当然、27,8kg前後の弓は射こなし、これを実践で教示されると理解できます。
「素引きと矢番えとは何が異なるのでしょうか」
「矢番え動作は素引きの動作と何故、同じ姿になら無いのでしょうか」等々、問いはいくつも上がります。本多利実師の問い掛けから、私たちは何を学ばねばならないのでしょうか。応えは、日々の肩入れ動作と射場に一射に去来する、自分の心と、初めて指導される方の射に接する姿勢・心によって定まります。先哲は形にと捉われる意識をもってはいけませんと警告します
射とは「見た姿」と同じ姿にする意識で射を行う癖があるのであれば、180度意識を変え、骨法の理に随って弓弦を押し広げ続ける事で形はその結果と意識する射である事。癖の付いた自分を振替えあれば、今でも、これが最も難しい事と自戒します。
本多利実師が良き師を得て正しい順序で稽古すれば「的に向かって薄六分 (約20kg程度か)の弓が愉快に引ける」との師の記述からも、「 六ヶ月で 真の中を知ります」一年ほどで射の道 の入り口に立ち、六分、六分五厘、七分と自己の技量に相応の道具を求めて先哲の究理した筋みちに向かうのでしょう。その道程に「射法訓」の示唆に必ず触れると今は思います。高穎師も「射学正宗」で同様の事を述べています。「 六ヶ月で 真の中を知ります」と先哲は云われるのに何故、いまだに迷うのでしょうか。
幾百年の歴史に支えられ、実証され、伝えられた伝統の射の技の記述には、「正しきこと」と「不正の癖」を射法の道理と事実で解き明かし、”幾多の問い”や”心の迷い”に応えていると思います。「射法射技の本は一つ」と本多師が云われるのは、「日置師の発明工夫された七道(八節)の道理:骨法」に自ら問いかけ、深く究理しなさいと云われていると思います。素引きと矢番え動作の違いに問いかける事は、一事が万事、射場で行じる一射に、射とは 何か、しいては弓道とは何かとの問いかけでも有る、と私は学びました。
以上
足踏みと胸の中軸から離れをつなぐ縦軸
素引きの事:先哲の示唆
本多師は「素引きの稽古で主に注意すべきは足踏み」と示唆
「足踏みを規矩を知って稽古する事によって全体の規矩と合致する目的で素引きをする事」
何故、「足踏み」なのでしょうか。
次の巻き藁は胸の中筋からの離れを学ぶ
はじめに
先哲の書から学べば「骨法に理」に随って理解する事になります。
本多師と高穎師と池田正一郎先生が「何故、素引きが大切なのか」について丁寧に説明しています。その観点から示唆が、現代弓術書に少く無いと思われるます。石岡久夫著「弓道入門」に”素引射法”と項目を設け、手の内と引分けのバランスが素引き練習で大切と説明しています。現代弓術書に素引きの詳細な記述はあまり見られません、弓道小辞典には肩入れ動作と素引きが平行して記述されています。そもそも、素引きについて誰もが言及し、肩入れと素引きを区別することもなく、射行の前に必ず行うと云われながら「素引き」に「射法八節:骨法の理」を学ぶ記述は見られません
「弓術講義録」の本多師の素引きの説明に「骨法の説明と実践の内容の指導」があると私は理解しました。それは師の著作「弓道保存教授及演説主意」に「能き師に学べば六ケ月で真の中を知る」とあり「一つ月目で骨法を知る」とありますから、それが射には法があり、射法八節の技を説き、実践すべき素引きの法を教導したと云えます。しかも本多師のこの指摘は高穎師の示唆するところと一致し、その弓は六分弱、約20㎏程度の弓と理解できます。それは当然、誰もが25,6㎏~30kgの弓を普通に引けることにつながります。
では、実践の教導の具体的な内容の足踏みを上げている事に意味がある学べます。つまり足腰背骨脛骨の使い方に骨法の定義が顕れます。次に「足踏みの規矩から横軸の規矩に進み横軸の骨力の在り方を骨法の定義に随って説く事になります。学ぶ者は全体の規矩:射法八節の規矩を自分でどう理解し、素引きを技を実践するかになります」矢を番えなければ誰もが”自身の考え方、実践で感じ方た引きやすさ引きにくさの剛弱をしり意識の所在、性格、心情、学び実践の仕方など等で皆異なります。ここに、射の理に適った創造的で個性的な射が生まれます。多分、外見は同じ様ですが、少し飛躍しますが、内実はその射手の生き方に実相が顕われると云えます。それ故、射はその人を表すのでしょう。
私の理解。
射には常に二つの圧縮力が身体にかかります。一つは重力であり、一つは弓力です。いずれも、一時として途切れることなく連続して体を圧縮する力です。
この力に抗するのは骨です。骨は私たちの体重に加え荷も持ち100㎏の人も何時間も支える事ができます。その力を、竹林坊如成師、高穎師は骨力と記述しています。それは骨格によります。骨格は筋膜、筋肉や筋、体液、空気や皮膚で支えられています。それが筋骨です、筋肉は圧縮力を正しく受けるためにもちられます、その理は骨法の定義となって、竹林坊如成師が書き記しています。それは自然界の力学に沿っています。
弓重力に抗して私たちは骨を主にして立っています。関節を伸び開き続けないと、体は曲がり、いわゆる縦線がなりません。その規矩が足踏みの胴造りの規矩となって形に表されます。その技について本多師と梅路師は具体的に常に正しく伸びつ続ける動的な技、方法を示しています。素引きは足踏みを理解することによって骨法とは何か、八節の射法の規矩の「理」は何かを初心者は自覚、以後、射の理と実践は車輪両輪の如く周り、まっすぐに正しわざを自覚すことになると理解します。
開かれた弓弦は常に連続して本に戻ります、身体を連続して圧縮するのに抗するのは骨です。骨の中を通ずる骨力を竹林坊如成師と高穎師は述べています。これが横線です。
のちに詳細を記述します。