自然の理
自然の理
技の根:”自然”
変化する自然の中で生れた生命体には、自然の変化に応じて生命を維持する仕組みが在ります。人が作り出した道具や技の型も自然の変化に応ずるモノと云えます。弓術書や指導に現れる”自然”に関心を向けて射を学んで行く事は「射の真理」や「射の理念」等に道につながって行くと思います。
400年も前、射学正宗弁惑門に「射には一條の大路ありて皆自然に出来た技」とあります。同時代の尾州竹林弓術書(生弓会編)には「勝手も又自然無心となって弽へ心を通ぜず離れる也」とあります。
自然と云う言葉は古くから使われいますが、高穎師の自然には人が意識する万物すべてを網羅するといえるので、”当然”の意を含み唯一無二の技の意味を感じます。
竹林の一事象に対する自然は、起こるべき事象を事前に意図しても、変化する現象の起こりに意識は関与せず、起こるべきして起る事を述べていると思います。一事が万事、射の行動すべてがこの「自然」の中に在ると学ぶべきでしょう。
竹林「離れ」に当たる高穎師の五法は「軽」が該当します。「軽」には「…瓜がよく実りうみて、へたの自然に落ちるのと同じ様に、發れは虚にして意ねんを用いず…」と村河氏の解釈があります。原文は「如瓜熟帯落全出天然鬆而且脆」です。虚にして意念を用いずは、仲和良氏の譯(月刊弓道)もも同じですが、村河氏より前に譯本を出された小澤廣氏は「…瓜の熟してホゾ落ちの自然とする如く無理にせずして鬆(アラ)く脱げれば…」とあります。「鬆而且脆」の解釈に違が顕著です。
「竹林射法の理」は本書二巻中王の事に集約されていると思います。その中に「自然」の理はありませんが「天地万物の一理」について考察出来ます。射学正宗に云う「一條大路」が該当させます。
具体的わざにかかる”自然”は無作為で無意識の意であり、その先の「意識外」も関り、射法の道理に係る”自然”は人が意識する森羅万象を網羅する道理の中にあるとの認識に立脚する。明治以前は、神や人知を超えた目に見えないモノを含み、科学思考をする現代は先人の業をどう考えるべきなのでしょうか。
本多師「射法正規」には「誠に天地自然の霊器ともいうべし」とあります。
梅路師「自然合理の射」には「弓を以て心を現し、更に之を覚證し天地当然の真理に即して自在に心を現す」とあります。
教本には「射の眼目は自然の理を動作の上に表現すること」と述べています。「自然とは自ら規矩が有、作法がある。自由奔放の動作や本能に依存する態度ではない事」 と「射」における「自然」を定義しています。又科学的に考えねば時代の潮流に乗らないと述べ、科学的とは弓を力学的に研究する事、科学的とは弓射の人体の解剖学的研究の事をいわれています。「技即道」を記載していますが、「自然の理」の論理的つながりと「道」に至る筋道が見つかりませんでした。
時代の違い
明治維新前と明治維新後 本多利実師 以前と以降 弓箭が有用な時代と無用の時代
地域の違い
日本と中国 竹林派弓術の骨法と射学正宗の骨法
道具の違い
和弓と明時代の道具(弓箭等)は異なりますが、各人の心身の能力を最大に活かし重力に逆らって、”用途に応じた矢”を”遠くに速く、繰返し早く正確に放つ”事を目標にすることは同じです。和弓が有用であろうと無用であろうとも「技の本」は変わりません。
その本になる考えは、どなたにもそなわる「自然の理」に依拠した「人体と道具の関係の合理性」にあると言えます。射の合理性は、今まで吟味してきました様に自然の道理に則した骨法で、八節の射法射技の理論の礎であります。時代や日本との文化の違いから目的には異なる所がありますが、先哲四師に「自然」というキーワードが在りその共通性には単に自然科学的な合理性を、比較検証的な科学的認識に留まることなく、之を包括して人が動作を、現在身の知覚と自覚の中で当然起こるべきして成る自然の認識が意識されますので、具体的に吟味したいと思います。
その事が、射に在って「自然の理」とは、何時の時代にあっても、誰にも変わらず意識出来る動作・行為と考えと思います。それは、当然、再現性の事実と自力の極限化にして、実績とエネルーギ―ロスの少なさで実証されます。
「自然の理」の覚知の始めは「技」の自覚です。次に「行射の意識」の自覚となるのでしょう。
自然:「連続性」の認識と「正雑」
具体的実践が素引きでしょう。筋骨の働きが合理的で、力の働きが力学的な合理性に適っている事を意識して八節のかたかたちわざの本質に考える事でしょう。
梅路見鸞師は「筋肉を自然に働かすこと」を射法七要諦に据えています。弓を持たないで八節の動きをする事でしょう。
射法要諦には「弓箭を自然に働からすこと」を言っています。弓箭は外力が加わらなければ慣性で静止しています。
両方とも自然で道具を扱う動作をするには、射形の規矩を離れて連続して動作をこなさねbなりません。
一つの考え方、想定できるのは、弓・弦に点で触り、最小限の応力で一体化する事と思います。
射における自然をその行程:一射の中でどのように意識されるかが課題となります。それは「正」と「雑」に現れるのでしょう。「正は無意識であり」「雑は不連続」で意識が起こされると考えられるでしょう。
根底は 射形に捉われる動作、筋力で弓箭を操作する動作は、筋力を知覚する、意識されるので不自然と規定します。
射手の内なる自然の力、目に見えない力:骨力の流れ連続性にこそ意識を向けるべきでしょう。
普段、人の立っている姿を想起すれば良いとおもいます。特段走るとか、昇るとか、モノを持ち上げるとか投げる等動作をしなければ立っている事さえ意識しません。普通に歩いていても比較的無意識です。しかし、重力は体を大地に引き込み続けます。一時として止まる事のない連続です。射の胴造りの縦線がそうです。
さて、横線もそのように考えられないでしょうか。千日回峰行を想えば、縦軸を一日30数km、約3年間休むことなく続けます。これは骨力の為す技と愚推します。当然、両腕、両手も同じ様に動作出来るとすれば、骨法の基になる自然の理に内在する「何かを」無意識の中に意識します。自分の内にある可能性です。
教本には「射の眼目は自然の理を動作の上に表現する」と記述で思い起こされるのが、 昭和初期の「自然合法の射」です。詳細は昭和9-11年「武禅」に記載されています。人の道を唱えられる師の示す所は実践とともに深い哲理を感じます。その思想は竹林坊如成師の射の理にも顕れているので「本は一つ」と云われていると愚推しています。また、技の取り組みの始めにおいては、射学正宗弁惑門高穎師の考え方に浅学ながら符合するものを感じます。
以上