射法射技の本:骨法の本:自然の理:そこにある射
骨法の先にある姿
型形技が有って ”かたかたちわざ“ が無い世界
又は
”かたかたちわざ”を意識する世界を過ぎて
”かたかたちわざ”を意識しない 又は 世界意識されない世界に誘われます
射法射技の本:骨法の本:自然の理:そこにある射
骨法の先にある姿
型形技が有って ”かたかたちわざ“ が無い世界
又は
”かたかたちわざ”を意識する世界を過ぎて
”かたかたちわざ”を意識しない 又は 世界意識されない世界に誘われます
日置師と竹林坊師の世界と本多師以降の世界
「誰もが的中する射法射技」の基本の理が「骨法」にある事を明らかにして
型形技を工夫発明した先師、現代に活きています
先哲は皆その本の自然の理を明らかにして人の心に目を向けて「射の型形技」を述べて
その心の在り方を必ず先ず説いて、具体的に教法を示しています
射術:竹林坊師と本多師・梅路師・阿波師の世界:弓道
弓箭が有用な時代 骨法は唯一無二の射法射技である事を弓術書に示し、現代に射法八節として活きている
同時に 竹林坊如成師はすでに、「骨法を超えた先の射の世界」を示してる
弓箭が無用の時代 射の理の要とは何か
弓道を習得するには、先ず、一切の心の囚われを離れて小児の様な純真さに還って「射」を行う事
『「弓道を学ぶには」池田正一郎述』より
小児の意識の様な動作:詮索しない射・比較差別しない射の動作
・未来身を意識しない現在身の射の世界
未来身:意識すれば結果を詮索する欲の射の世界に入り易く迷い道を彷徨う輪廻の弓
現在身の知覚:為すべき事を正確に為す意識の自覚
サブペイジ:自然の理、時代の変化、射術と射道・弓術と弓道、自然合法の射
近代現代の様子
何故 本多師梅路師阿波師の三師はあまり「骨法」の事を記載を見ません
反対に、弱弓を手にする人は「射は骨法」と云う方が多い気がします。
自然の射法と骨法
自然の道理に基ずく「骨法の射」もまた「中」を目的に工夫された射法射技である事
しかし「骨法」の基に「自然の理」があります。弓箭が有用の時代、その事に竹林坊師と高穎師は言及されています。
弓箭が無用の時代、本多利実師、梅路見鸞師、阿波見鳳師は自然の理に立脚して射法射技を展開されているとおもいます
純真な一射
まだ技も姿勢もママならない初心の方の無我夢中の純真な一射はどう受け取れば良いのでしょうか。
射法八節を知って正しい技など完成しなくとも、若い方の真剣な一射に、ある時、フト、離れて鋭い飛と強い中をみます。骨法が無限の可能性を引き出すと学べると述べてきた背景には「骨法を体得して骨法にも捉われないその先の射の理」が「最も自然」と愚考されます。その自然の射は「骨法の習得の課程」に誰にでもいつでも常に顕現されることであれば誰でも為す事が出来る個々人の射と理解できます。それが最も大切な事と思います。もし、その事に具体的な方法:射法、教法が在れば一つの筋道となって、どなたでも骨法の先にある姿に従って射を為す事ができると思います
「筆紙に尽くし難し」
尾州竹林派弓術書本書第一巻から「七道が始まり」、その七つの動作に「中り」を目的する事が明記されています。弓箭が有用の時代にあって『「的中」と「飛翔性能」の「正確な再現性」を「誰もが」身に付けられる技』が骨法の目的となるのは必然的な事と云えます。竹林坊師は「中・矢早」は射形の真、真実は矢業「矢飛、貫通力」と述べ、的前の射形の真と繰り矢指し矢の矢業ともに稽古しなければならないと厳命しています。矢業は弓の強弱に係る事です。本多師は”竹林派弓術の為すべき五つの法度、中、矢早、通心、遠矢、花形(蟇目鳴弦)の全て為し得ないと射の事は、失礼な申し條かもしれないがわかりません”と述べておられます。
規矩に会わない射、癖の射であっても、時として、誰が見ても見事な良い射は現れます。正しい的中を目指し「骨法の理に適う八節の技」の体得し、今、身に付いた技量で「射を為す」で技として未完であり又癖は誰でもが付くものです、それを正しい道に導くのが指導者の役割と本多師は云われます。私の先生は調子のよい時に指導者がいじって射の味を失わせて今うとよく言われます。本多師は「射には調子」ということも在ると云われます。
初心者に見る見事な離れと的中。経験者の調子に因る中。鋭い矢飛、に接しますと、弓箭を扱うには「骨法」だけでは書きあらわせ無い ”射” が 現れる事実がある事に想いを馳せます。竹林派弓術書の具体的な技の説明には、そのわざの極地には「筆紙に尽くし難し」との記述がそこかしこに顕れます。「的前の正しい規矩の中」と「弓の強弱に因る矢業の真実」の先に骨法では言い尽くせない事にこそ、それが「骨法に基づく八節の射法が現代に活かされる基」になっていると本多師梅路師阿波師は云われていると愚推します。
明治維新後の三師の著作や記述からは、4,5百年も前、時代の必然性に随って工夫され確立された「射法射技」を徹底的に究理してリスペクトし、自ら先人の射を実践して実証し、先哲の云われる「骨法」では云い尽くせ無い「射」を体現され、その射の本質が弓箭が無用の現代社会にこそ求めらと云われていると学べます。本多利実師は現代弓道の礎と云える「射法正規」に 梅路見鸞師は「顕正射道儀」の教典を示し、阿波見鳳師「大射道教」に記し、多くの人材を育成されたと愚考します。本多師と梅路師は各流派の流祖も骨法では云い尽くせない「射」を明示していると述べています。
梅路師は武禅に「自然合法の射」を記しています。「自然合法の射」が良導の導師のもとで誰もが為し得る事を明言していますので、読まれることをお勧めします。阿波見鳳師と梅路見鸞師が骨法の限界を突き詰め、弓箭が有用の時代の骨法の限界を超えた可能性を、その実践方法と理念を、弓箭が無用の時代に提示して、実行された思います。
弱い弓で形だけ真似ても迷い道と竹林坊師は云われます。それは現代でも同じです。
射法は骨法を礎にしていると学んできました。その事を書き置いて「骨法」をいい加減にする事も無く無視することなく、その道理を学び稽古にて体現し、再び学び、生涯歩む続ける事と自戒します。骨法の射は手にする弓の強弱が幅広く楽しい稽古ができます。頭で考えれば、その使い方はまだまだ沢山でてきます。
常に念頭に置くべきは、本多師も梅路師も、各流派を継ぐ指導者らが流祖の示す「理」と「射」を正しく学ばず、表面的な姿・形だけ伝承していると断じています。本多師、梅路師、阿波師を流祖として学び指導される方の為す事がいかなるものか、当然、本多師も梅路師も見据えて「その失」を厳しく書き記して事とは誰もが発見できます。
現代に生きる伝統の技 予測・予知する能力の育成
射が骨法に拠る事を知って、その先へ多様化した現代の生活に在って、「弓の活用」もまたそれぞれの価値観に添った多様な用途が認められます。結果だけを求める現代社会の風潮にあって、数百年の伝統に裏打(実証)された「射法の合目的な理論と実践”による体験は、その風潮の課題に目を向けさせる役割が在ります。すなわち
「かたかたちわざ」のある伝統の正しい技を正しく学ぶ事に因って正しい結果に至る過程に、
予知予測する能力を育成する力がある事に気付きます
特に射の用に「連続している一連の技の変化に予知して自然に対応する能力」の育成といえます。
射の技を身につける過程で得られる予知能力を
本多利実師は次のように述べています。
(尚、HPに記載する着物の染色に用いる道具:孔版型紙で反物に連続して糊付け作業をするわざ・動作の中にもあらわれます。)
本多利実師口述「中外論」大日本弓術会編「射道」大正二年
(財団法人生弓会発行「本多流弓術書」ヨリ)
「…前に申しました竹林派五か条の法則を守り、果たして其所に至りましたなれ射ぬ先から中外の変化の理を余地する事ができます。そういう訳でありますから真の修行をしては中らぬとか、矢束を取れば中らぬなどと申すは何れも間違った話で御座います。…」
竹林派五か条:「中り」「矢早」「通心」「遠矢」「花形」の五つの射法射技をいいます。「花形」は「蟇目鳴弦」とおもいます。これは、尾州竹林派弓術書(生弓会蔵版)「本書一巻、一 始中終法度の事」に記載され、稽古の始めから「中り」と「矢早」を的前では「真の射形」、「通心」と「遠矢」で「矢業の真実」を修行しなさいとあります。本多師は ”射の事はこれ等五つの技をひととおり稽古して卒業して分かる事”と述べてます事から、当然、「強い弓を射こなせねば骨法は理解されない」と学べます。尚、「花形」は修行を積んでから為される事を本多師は述べております。全文を読んで理解願います。
日本の射法には「法則」があります。現代では矢を射はなつ爽快感に加えて、「正しいプロセス(射行)の実践によって当然の結果(正しい事実)を正しく自覚する」事を体験出来ることが述べられています。詰まり、射は自然の道理に従うので、動作の中に自然と予知する知能が働き、その筋道で稽古を積めば、行動と結果というう因果関係、現在と未来を比較せずに現在の中に未来が当然あるとの知覚を得る事と云えます。「矢が飛び出す前に中り外れのことわりを知る」ので、結果や未来などに煩わされる必要はありません。それは「かたかたちわざ」が何かと問うことからはじまります。
射には、自分の骨に基ずく自然の一筋の射の技が誰にでも備わっています。自分から「射法の理」を学び、実践でその理が確認出来る喜びは、射の特徴といえます。それは自立心を養い、他意見を伺い、自身の意識が謙虚であるか心の居場所を考えさせます。つまり、心が欲望にとらわれているか、心が正しい真実を知りたいという欲求に依拠しているかのもやもやした心象を明らかにて、はっきりと自分の心知る役割となります。
それ故、伝統に裏付けされた「法」のある技、射法の実践が現代から未来に生き続けるには、先哲の言葉に謙虚に接し、「何故!」と問いかける事にその一歩があると理解できます。
内にある道具:骨に意識を向けて思う事
骨は人の持つ道具として位置付け、筋膜、筋、筋肉、皮膚、体液、呼気と関節で動態の骨格せ矢を射る姿勢を考える基礎に置き、一定の重力のもとに、連続的に引き絞る弓力の変化と呼吸の変化、心気の動きなどの動的状態が、射の動作に想定されます。梅路見鸞師は「武禅」で大正の末頃から射に起こる力の現象を、単なる物理的解釈で終わるのでは無く、心理物理学という見地から専門学者に研究を指示している事を述べています。バックミンスター・フラーがテンセグリテー理論を提唱した時期に重なり、「かたかたちわざ」を考える範囲を広げています。
弓を射る縦横十文字の骨格の中を走る「骨力の直線性」を想起するのに、「皮膚や筋肉、体液、呼気に包まれた骨格が直になるようにする」骨法の理は、「人の心気が呼気と一体」になってその「直」の真正を限りなく極限にするのは、物理的な動作で知覚・動作できず、身体内を頭の天辺から足先まで瞬時に伝わる電子情報などによって、それを知覚する無意識に自律神経の生理反応によって、射手の全身が動的な直に統御され働き、人智を超えてた発と射の発現が、自然、為されると想定すれば「心理物理学というヒト特有の力の実態」が浮かぶのかもしれません。当然、その心気は電子的なオーラとなって外部の世界と物理的に結びついているので、彼我を分けない、自他を乖離させない、一元論的認識と一元論的行動の様相を射は内在するとりかできます。射の限らず合気道や他の技の図り知れない技の作用と力の根源もそこにあると勝手に類推します。