「武禅」:昭和10年 第二巻「内省寸語」 ”常” : 樫野南陽 

「身に弓を覚らせず、重きことは深淵の細竿を入れ水を切るが如く、軽きことは鳥影の静に過ぎるが如し、引くに非ず、引かるるに非ず、唯円相の自ら成るのみ」とは常に老師の射を説く處である。老師の射を拝見していると其御言葉を如実に味うことが出来る。淡々として水の流れる如く、引いているのか、引いて居ないのか強いのか弱いのかを分ち難い。そして引分から發に到るまで毫末の停滞もない。 彀(コウ) に入って次第に肘先が円を描いて締まり込んでいくにつれて、懸け口が実に微妙な解合を見せつつ發を生じる、八方へ開く弓弦の響、思わず威圧を覚ゆる、其響は今日迄天下の大家と云うべき諸先生方の弦音も聞いたが、一つとして聞かない凄まじい響きである、真に威音と云うのはこの様なものを指すのであろうと思う。

如何なる人の射を拝見しても、發の直前には精神的巧作の見えない物は無い必ず發すると云う気の響きがうつる。総て發を意識しているからで、一定の落付きを求め、得らるれば其處で發する、發!と意識する時、最う既に引かれているから發すると云う気が響くのであると思う。その發の意識がある間は、如何に見事に射られても、射にはなって居らないと云うことが明瞭に分る。 …」