わざから技術へ:近代化
わざから技術へ:近代化
明治以降は、西欧の科学的な手法で自他を分析的に認識する方法と明治維新以前の日本文化の伝統的な「型と技」に見られる論理性と「筆・紙に尽くし難し」と理に即した直感的かつ無意識な動作を認識する精神性の二つの視点の交錯から入り交じり、背景にある日本文化と文明は西欧的に変質、又消滅したと云えます。
戦後は時間の要素を功利的に組入れ科学的生産要素は、素材や生産管理のバラツキは収率で管理し、素材・エネルギーの大量消費、事物の大量生産、大量の副産物と大量廃棄に進み、現代、時間と収率と事物の同一性の管理はコンピューター技術に依存して、人・モノ・機械の系から人間の技を駆逐し、心の介在を拒否しはじめています。
道具や機械、コンピューター等を用いる正しい技の意識は言葉以外にどのように鍛練されるのでしょう。道具と現れる結果の間に人間の介在が少なくなれば、道具機械・設備や装置等の使用における有用性と悪用にかかわれず、今の道具・事物の全ては人類の存続・地球環境から、その存否を明確にせねばなりません。あいまいでは、所謂、横着して結果だけ求める欲望が勝り、欲望が正義となる世界に埋没する危険性は何時の時代にも明確に現れる人間の性と云えます。
現代、コンピューター技術によってAIの技術が技の世界を席巻し、ヒトの姿・形が見えにくくなっている現代、心を見つめて、見極める努力や、その能力を高める工夫(教育や鍛錬)が社会集団として究め、実現する事が大切な時と云えます。その一つが伝統の技の修練にあると思います。如何に道具と共存していくか、心と技の乖離をなくす学習や意識が問われています。
「伝統の「技」の課題:
「技と心」の話は、明治以降、伝統の術技、技藝には「道」を付加し「道即技」乃至「技即道」と、「技」に”人を導く理念”、又はお題目が付けられました。現代はなんにでも「道」が付加される程、一般化しています。
しかしどうでしょうか、指導者や強者によるハラスメントと不正は、先人の理念を据付けて組織化し権威化した武道やスポーツや藝道はたびたび報じられます。他力に身を置いて権威と序列に心が奪われ、自立心が埋没する事態を多く耳にします。禅の世界は野狐禅がはびこると言われるほど真実と虚偽が混在すると、善導の識者は教えてくれます。「道」の言詮、見える姿・形式が同じように認められる世界では、技を発明した先人の意志とは異なります。勿論生まれる事物は似ている様で全く異なるモノである事実はたびたび話題になります。全ては欲望の世界の世界の事です。良導の師の云われる如く実践にて人を導く事もなければ「道」など”理念”をカモフラージュして人を惑わす”悪用”である事を知ります。「道」を唱え主張される方に「道」を問えば、千日回峰行の如く、歴史に陶冶された具体的な「導法」や仕組みがあるわけでなく又、その事に何ら疑問を抱かない事は迷う道に人を誘い込む罪を犯します。型形技に「道」を付与して組織化して権威化し自らの所業を神格かする過ちは歴史に明確です。