骨力の性質(ベクトル) と 射形(弓と身体)の表れ方・姿
射手が意識するのは中味(骨力を意識してどのように用いるか)
顕れた姿が射法八節の規矩に適っているかを問う事
八節の型に合わせるよう弓箭を扱うのは真似事
骨法の定義は射を行う骨力と現れる姿の力の中味・性状を示しています
骨力の性質(ベクトル) と 射形(弓と身体)の表れ方・姿
射手が意識するのは中味(骨力を意識してどのように用いるか)
顕れた姿が射法八節の規矩に適っているかを問う事
八節の型に合わせるよう弓箭を扱うのは真似事
骨法の定義は射を行う骨力と現れる姿の力の中味・性状を示しています
弓箭の姿が「骨力」どう育つのかを意識する事
「正しい技」に取組む姿勢は「正しく弓を押し開く」意識で、心は自分の内なる力の向きにあります、その心が八節の形をなぞる意識で弓箭を操作する事は「間違った意識」と云えます。共通するのは「弓を握らな事、弦を押さえない事」とどの弓術書にもあります。その課題は弓・弦の作用点の課題:つまり「両手の内と弓弦との接触の状態」の課題と成ります。当然、弓手手の内と弓の接点の在り方とカケの弦枕と弦の接点の在り方です。
これは尾州竹林弓術書中学集、本多利実師「弓道講義録」と梅路見鸞師「無影心月射儀」が明解と思います。私は「直」をベクトルで考えていますので、弓と弦に点接触で考えることにしています。
初心の時、一度弓の弝を握りしめたら緩める至難です。はじめに握らずに射の運行ができれば握るのはいつでもできます。その怖さを拭い去らなければなりません。その一つは方法は指導者が弓は中指先一点で、弦は弦枕に引っかけて弓弦が押し開ける事を指導者が実践して示す事が良いとおもいます。
次に、当りを意識しない事でしょう。射法に従えば必ず中る事を論理で示す事で、できれば実践される指導が必要です。その第一が、射形とあたりにとらわれず初心のうちに為すべき事で本多利実師が素引きと矢番え動作の違いの示唆に現れます。
総ては、弓構えで両手の内を整えたら最後、縦軸に伸びて定まる両肩根から骨の向き(方向性)に弓を押し開き続けて、離れから残身に至る以外動作はしないと理解出来ます。それで六分数厘の弓は引けると実感します。
弓手手の内は弓と中指先一点が作用点です、馬手手の内は弦枕の中で弦は自由に当たります。弓箭の位置、形は残身まで変化しつつづけます、その変化が最も大きいのは打起の始めから大三と学べます。この間、両手の内が自由で在れば、自然に弓は垂直に成り、矢は水平に成ります、するのではありません。天文筋など当てるなど形にとらわれる事はしません、本多師は「弓道講義録」でいっておりますし、教本では神永師も明解に云っています。
天文筋の事を一言申し上げます、教本で天文筋を称しているのは斜面印西岡山系譜浦上師だけです。他流派には天文筋とう用語は見当たりません。浦上師も斜面を正面に天文筋を応用するとき、弓構えで天文筋など述べ取りません。教本では印西岡山系譜の斜面だけで他流派は天文筋を使いません。教本は射法は二巻三巻を参照とあり、添付図解に記述はありません。この絵図は四巻範士の図絵で同師も天文筋を弓構え調える等の記述はありません。
技量の無い人が天文筋や矢の水平、弓の垂直に意識をとられる、先ず、肩根がうきます。之では骨法の直を見失います。肩根が浮いては弓は押せません。それは的中至上主義の迷い道に学ぶ人を招き入れます。勿論、技量のある人であれば天文筋を付けたり、弓を垂直、矢を水平に射形をコントロールして六分数厘程度の弓は射こなせると思いますが、技量の無い人は筋力を頼りますので、八節の射形に合わせるため筋力が使える弱い弓でなし、筋力の衰えと共に規矩に会わず引け無くなると先哲は断じています。
動態としての十文字を育てる事
地球の重力に逆らって矢を飛ばすのですから、15間的前から30間程の的前は、身体の縦軸は「垂直をの”直”」、両肩線の「水平の”直”になります。この縦横の十文字は弓術書に必ず現れ、尾州竹林派弓術書は「総十文字」と示し「正しい中」的中の基礎になる骨法の理と学べます。
「直」が育って行く先は会から離れ・残身の動態として「骨力」が連続的に伸びて、骨節がもうそれ以上行けない極地にあっても、伸びるベクトルの方向性があり、限り無く十文字に近ずく動態を云っています。
それは中からの力によって生まれるのであって、形を真似てベクトルが停滞した「五重十文字」を作るのでは無いことを骨法の射の稽古では理解しなければ成りません。前者には自然の離れがあって、後者の停滞した放す離れと なります。前者は伸び、後者は、停滞、緩みます。