射法訓を辿る
射法訓を辿る
射法訓を辿る
「射法射技の本は一つ」を
江戸期紀州竹林派吉見順正師の言葉「胸の中筋からの離れ」をキーワードに関連する記述を基に遡ります。
「一つの本」から記載すると次になります。現代の技の記述と文言はこの諸先師から出て今に用いられています。
新射術は日置師の創意工夫した「七道の射法」から現代の「射法八節」に至ります。
日置師 1500年没(59歳)
竹林坊如成師「竹林派弓術書」 1610年頃没
高穎師「射学正宗」 1638年著
吉見順正師「射法訓」 1706年没
本多利実師「射法正規」 1907年著
現代
「本は一つ」に辿る、ヒントの記述の抜粋しながら進みます。一つの本は竹林派弓術書の竹林坊如成師の射術に至ります。
吉見順正師の「射法訓」は現代の公共の施設に多く掲載されていますが、ここでは技の具体的内容を比較しますので、「教本一巻」全日本弓道連盟(昭和46年改定版)裏表紙前付けの記載内容を念頭におきます。
教本の射法の引分けの項「胸の筋骨と背の筋骨をつかって胸の中筋から左右に開くように…」と
会の項「…左手(押手)のいわゆる角見(拇指根)と右肘の張合い同時に胸の中筋より左右に分かれるようにする。・・・」の記載が
「射法訓」「射法とは弓を射ずして骨を射る事最も肝要也…然る後胸の中筋に従い宜しく左右に分かるる如く之を離つべし…」
(注:一巻の初版本には射法訓の掲載はありません)と一致します。
教本射法編冒頭:「射法訓」の本文に宇野師の注釈があります。抜粋すれば「弓を射ず」は「弓箭の操作に捉われ、自己を失う」事、「骨を射る」は「射は自己の筋骨で力行する」事と学べます。この部分は先哲の示唆と重なりますので後に記述します。「射法訓は(弓道の)理念を内包して術技の内容を詳述」と述べていますの、射法訓が「射の理念」と受け取りました。
昭和初期
昭和9年 武禅 「説苑」 梅路見鸞師
「…我等は、弓に矢をつがえて正しく引く底に至りて、初めて古人の射型射法、が射後妙底の深底より一糸乱れざる微妙な連絡を保ち、微塵の異法異形、無く深所へ深所へ正処へ正処へと、前法をすてしめては進めている。…」
「…(多寡が弓に矢をつがえて正しく引く位に、特別の新工夫を要するものではない、自己が行い得てさえおれば、更に容易に伝えるのである)しかし各派の射法に於いて多少の優あるは各流祖の悟底の深浅、行路の別、時代の如何、道力の相違等に因って生じたるに外ならない。…」
胸の中筋からの離れと云う具体的な記述は梅路師の著作見当たりませんでした。射法射技に「微塵の差無し」と明示され、梅路師の著作と樫野南陽師が見た梅路師の会から離れの姿を記述を考察しますと、本多師、竹林派弓術書、射学正宗につながりは明解です。「射」の技はもとより「技即道」を示し、「射」を以って人を導く「道法」を明示されて実践で顕現されていますので「理念」の面で本多師、竹林坊師、高穎師との具体的つながりも、別のキーワードで吟味したいと思います
明治年代
本多利実師の著作「弓術講義録」は江戸期の弓術「本は一つ」と喝破され、師の祖師が竹林坊如成師である事から自明として取り上げます。何故か、本多師と梅路師から「胸の中筋からの離れ」と関係する、具体的な記述は見当たりませんでした。何故でしょうか。
明治40年極月十八日 「射法正規・中巻」本多利実師
「…其 弓を取 稽古するに次第有り。骨法正路に渉り修学するを以て、やがて気合にうつりて 気、象 共に全備せざるべからざる事に知覚するなり。…夫々 祖より漸々時代去る従いて、祖師の発明練磨の骨法筋道の道理を立置し 法則自然忘却、唯々代々伝々する所の祖師姿勢及び教導するのみにて、斯道の何たるを吟味する事なく、師も又其順席を以って伝え来し侭二百余年に及ぬる今日なれば当然なるべし」
明治22年「弓道保存教及演説主意」本多利実師
「先ず此頃の壮者射の何たるかを知らず、唯射は射て成る事と思い。骨法の所以を知らず。」
「…如此種々教は有りといえども、帰する処弓を引いて矢を飛ばし的中せしむるに止まるのみ。何ぞ如斯く種々に別あらん哉。後世に至り本末を違い、何流は如此などと形に株守して本を失い末を論ず、是遺憾のの至りなり。本は一つ.なり。末に些少の見識あるのみ。それは一々説明すべし。」
本多流弓術書(財団法人生弓会)ヨリ
江戸期
1700年前後 「射法訓」 吉見順正 (射法訓は1600年後半~1706年 以前頃の記述と推定)
「そもそも弓道の修練は動揺常なき心身をもって……正技とは弓を射ずして骨を射る事最も肝要也。…然る後胸の中筋に従い 宜しく左右に分かるる如く之を離つべし。…」
その基を辿れば竹林派弓術書の本書に現れます。胸の中筋を起点とする離れは合理的で、射学正宗を通して孔孟の時代へとつながります。また、道具を扱う人の意識に「中心」や「バランス」等の概念を想起させる文言と思います。 弓が武具として認識される以前に文化に活き、いつの時代にも射が活きる事を感じます。
江戸初期
胸の肉開いて背の肉しまるとは此事なり是つり合の仕様なり
1638年頃高穎師著「武経射学正宗譯解」(廣道館発行)
第二 コウ法
和譯「 …人の長短齋しからず 各其骨節の尽る処を以ってコウを為さば則力大なる者も太過なる能わず力小なる者も不及なる能わず此天造地説の理なり 」
解釋文「…人のたけに長短ありてそろわず 故にその人々の持分の骨節だけ一杯のしまりを矢ゴロと定むる時は力の強き者も過分なることならず力弱き者とて及ばずと云うことなし 是天地自然の道理なり 」
第三 匀法
和譯「…此コウの後 當に之に継ぐに匀を以てすべし 而して匀開の功最急と為す…」
解釋文「…是れコウに継ぐは匀なり 因て左右つり合い 開くわざ精出すべきことなり…」
〇開くわざについて記述
和譯「…故に曰く 匀の法 肩を用いるより妙なるはなし 而して臂を用いる勿れと古に曰く胸前肉開き背後肉縮むもの此なり…」
解釋文「…因て云うつり合いをすることは肩にてするよりよきなし 必ず臂にてせざれとなり 古へ云う胸の肉開いて背の肉しまるとは此事なり 是つり合の仕様なり…」
胸にてさけてひらくる如くに離るる也
1600年前後 (天正・慶長の頃)「尾州竹林派弓術書:本書一巻」(財団法人生弓会蔵版)
「骨相筋道の事」
「骨法の直なるを直にそだて曲れる骨をば其理に随いて然るべく筋道を正しくよろしき所に至るを云う也骨法の筋道をわけただす心也」
「懸合の詰の事: 註釈 」
「是も矢束に用ふる義也口伝大事なり 又くさびと云う体に定まる是はつまるくさび也離れのくさびは過ぎて四方へ破って散る如し矢束のくさびはよろしきにしまるぞ三つのくさびとは是なり……離れの轄はよく惣体しまりたる上に胸にてさけてひらくる如くに離るる也是胸のくさび也 矢束のくさびは……懸合の詰は骨相筋道にあり五部にある義也と云えり愚案ずるに…矢束と惣体とともにしまりてつり合いたる上に離れのくさびを用ふべし」
「引取の事」
「…引納めてうしろのかりがね骨ゆきあって前の胸の高きをよしとするなり是おもそり橋とたとえたり…又直のそり橋と云うは弓射る事は直なる事肝要の至極なり 此の二度のそり橋を用いる根本は直に射ん為の事也故に直なる事を元にして即ち此の二度のそり橋を直のそり橋と云えり」
1450年後半から1500年前後? 日置弾正正次 「七道の射法」射経、孟子の時代は未調査です。以上。
わざの系譜:「射法射技の本は一つ」を示唆する弓術書
本多利実師と梅路見鸞師
弓術書を読みますと江戸期から戦前まではいろいろな流派がある事を知ります。教本は様々な流派の師の執筆からなる弓術書であり射法射技の詳細がわかります。
明治22年本多利実師は「本は一つ」と流派を糺して云われました。武禅や無影心月射儀を著わし、射をもって人を導く梅路見鸞師も「異法異形など微塵も無い」と喝破されています。
両師とも”姿・射形だけを教授する”伝統の技を伝承する側の体質」を指摘、警鐘を鳴らしています。姿、射形の表面に捉われると、言葉は実践と乖離します。本多師は骨法の面から梅路師は人の育成の具体的な道法の面から、正面打起射法に取組まれたと愚推しています。
以上。
日置師と竹林坊如成師
日置弾正に拠る七道の型が大本になりますが、弓術書を見ません。従って、ここでは「射法射技の本は一つ」を指針に、今日の弓術書に現れる射法射技の”言葉”や”理念”、正面打起を執る教本執筆者の系譜をたどり、本多師の系譜の尾州竹林派系弓術書に置きました。竹林派は諸系譜がありますが、尾州竹林星野派の系譜の弓術書が月間「弓道」に連載されました。
本多師系譜の尾州竹林派弓術書の骨法の論理は明快で「射法訓」に関係する記述も多く見受けられますので、諸流派の比較解析の本に置き技の系譜を俯瞰しました。
それは姿・形で比較差別する流派の姿とも言えますので技の項に記載します。浅学の私には日置流各派に限らず、言葉は同じでもその意味は大いに異なる言葉も多く 一方、おなじ意味でも言葉が大いに異なるわざを見る事が出来ました。
以上。
射学正宗
骨法の理論を明言する、もう一つ重要な弓術書は「射学正宗」です。本多師をはじめ多くの弓術家が崇敬する明時代の「射学正宗」は教本にも現れます。月刊弓道にも読みやすい口語訳で連載されました。骨法の理論の説明は具体的でかつ、射の迷い、病を通して、射を通じて自己を鍛える筋みちが明示されています。
弓箭や懸は異なりますが射法と道具と技のとらえ方、考え方も当時の実態と合わせて詳述され、今も4、500年ほど前も変わらないと思うのは私だけでしょうか。室町時代、日置師によって発明された日本の射の”かたかたちわざ”が口伝であったとすれば、竹林派弓術書の骨法や印西派系譜の使用文言等から推定して、射学正宗 は江戸初期の知識人らに多大の影響を与えたと愚推しています。
以上。