技量相応の弓力
技量相応の弓力は「力が有る無し、筋力が有る無しの理由」で詮索する事にから離れるべきです。熟達された方が歳を重ねるとすぐに「力が無いから引け無い」と云われます、この刹那、「射は骨法の然る所以を知らず」と云われる言葉が脳裏をかすめます。
射は「骨力」を主に「筋力」を従にして射法射技を理解する事が「骨法」の理解の始まりになります。骨力を主にすれば歳を重ねても扱える弓力は左程変わりません。古希を過ぎて25kg前後は普通に射こなせることを「射学正宗「」で高穎師が云われ、「本多利実師」が射法正規で詳細に説き、「梅路見鸞師」が武禅で警鐘を鳴らしているところはすでに記述しました。しかし現代の弓術書にありません。
これまで述べてきましたように「骨力」は弓の圧縮力20数㎏から30kgは誰も対応できます。それでも骨の並びを「直」にするのは「筋力、スジの力、筋膜、皮膚、体液と呼気等々」の力が必要です。それ故「骨力」を主、「筋力」を従にと理解できます。
「骨力」を意識して動作すれば弓構迄の胴造りで現在身の初めから骨の並びが「直」であれば、骨力は常に弓・弦を無理無駄なく押し開き続けています(いわゆる動態)から「殆ど力はいりません」。筋力は関節が押しつぶされるに抗して意識せずに、関節を挟む前後の骨を「骨力」が無駄なく伝わるよう無意識に働いています。日々の足の骨・骨格の無意識の動作を想えばよいでしょう、足の骨・関節・骨格を通ずる骨力は、重力に抗して無意識に筋力が働いて自分の体重40㎏~80㎏程受けて、自然に歩行します。それで人の普段の姿勢、射の姿勢は骨力が主で筋力が従となります。当然、弓が40kg50㎏など腕の臂緑は強い弓になれば限界はあるでしょう。
筋力が働くのは「骨の並びが直で無い」か、「弓・弦と身体の接点の動的な力の伝導」に意識てな力を用いているからと理解できます。つまり「弓と弦が押せない」のは、骨法の定義「骨の並びが直」に連続して行われている技が、連続性が切れ断続に成ったり、手首の筋肉で捩じたりして弓の強弱を感じ意識して「骨法の直」に「治す意識」が「筋力を使う」事で、その時に力を知覚(剛弱を知覚)するのです。剛弱を感ぜ無い、つまり骨力が直ならば、筋力は感じない事になります。梅路師は「射は意と力との着する所に随って其強弱を生ずること、無数にして而も其移動又定め難きなり。故に僅か三尺、弓を張るにその強弱の移動に因って生ずる弓の強弱の感ずること多し」と述べています。
その場所は射手自身を診れば「体内に260余の関節」が対象です。その関節点全ての剛弱を知覚する事なります。知覚できなければ真に動的な縦横十文字はなりませんし離れは起こらない事と学べます。之は意識的に無意識的にも射行中のその時に現れる「剛弱」でそれによって技量相応の弓が覚知出来ると云う「骨法」の射の基本的な考えと理解できます。知覚の状態は別途、「不動智神妙録」を記した沢庵禅師の話を記載します。
技の進んだ指導者は微細な強弱の変化、直なる骨格の変化を感じますし、技の無い方は大きなゆがみも意識できません。それ故、修練の程度・技量の程度によって、剛弱の覚知には大きな差がありますので、相応の弓の弓力は変化するものと考えるべきと思います。本多利実師は「調子」という事を大切にされています事もよく吟味すべき示唆と思います。それ故「筋力の有る無し」に拘泥する事自体、骨法に射に正しく向き合っていない証しと思えます。
弓が強ければ剛弱は知覚は大きくなり、弓が弱ければ、剛弱は意識しても感じません。筋力で形をなぞって出来る射では剛弱を感ずればすぐ弓を弱くしますので、弓が教えてくれる「骨法の直」など自ら破壊していると理解できます。それ故「弱い弓は骨法不行」と先哲は云われ、強弱共に稽古しなさいといわれいると4理解すべきでしょう
竹林派弓術は「真の中」は「相応の弓にて自師見覚する」と述べています。つまり的前の矢早の的中は姿勢の骨法で、骨力の真の直が発する射のエネルギの発現は矢業が示す骨法と竹林坊師は云われ、本多利実師が伝えるところと理解できます。すなわち「弓の強弱を師とする」事と学べます。竹林坊如成師が其の書の冒頭に記されている事たことです。微細な変化の兆しについては別途「武禅」の話を記載します。