はじめに
はじめに
変化を知る道具「型」:過去
型を用いて為す動作・行為「技」:現在
型に随い技を為して現れる姿「形」:未来
具象から抽象に変遷するピカソの作風
クラシックとモダンジャズ
禅の修行と悟り
など等
何れも経験はありませんが「かたかたちわざ」の世界にあって
「かたより入りてかたより出ずる」と云われるのは
名人の職人技、天才と云われるスポーツの技、同じく楽器の演奏技 等
その技の境地に達した方の云われる事
耳に聞こえるは、その分野の権威の作 だからでしょうか
しかし
自他の仕草と心の風景を見れば
型・形はあっても技には無限の姿があって
その心象に目を向ければ
人の動作・行為に無限の可能性を感じます。
目に見、音を聞き、肌に触れ、香りに包まれ全身で言葉や動作をする瞬間には文化の「かたかたちわざ」の中にいると意識する瞬間と、「かたかたちわざ」などとは全く関係なく動作し表象する姿が常にまだらに表れている状態が、意識という自覚を持ったヒトの姿といえます。意識を持たない幼児はどのような心象が在るのでしょうか。偉人の行動に、無邪気や純真など子供の様な心象を言われるのはその表れと思います。
伝統の「かたかたちわざ」に在るモノ
かたかたちわざは想像する心をはぐくみ、伝統の事物の実現に向ける心に自立の精神を喚起し
新たな創造の予知と決断する能力を宿します
反対に「型形技」は学ぶ者の想像性を剥ぎ、権威化の欲を増長します
「かたかたちわざの文化」の在る社会に生まれ、生まれ出たときの無意識の世界が行う本能的・無意識の動作は
意識される「かたかたちわざ」の社会の型に随って自他を認識して技を為す意識的行為に覆われ
やがて変化する環境を認識する方法に「型と形の概念」を取り入れて、「予知と予測の心象の中に自己を投影」します。
それが因果にかかわる二元論的認識の始まりとすれば
そこに生命の純真な欲求と比較差別の欲望の狭間に漂う心がうまれます
生を受けた瞬間から、無意識の中に「かたかたちわざの存在しない世界」が幼児期或る期間在ると思えば、
そこに立ち返り「かたかたちわざ」の本源とは何かと問えば
文化的あるいは文明的な認識方法の中に”幼児期と同じ認識を共有する手法が在るのか否か”
あれば「かたかたちわざを持つ文化や文明」の何処にその入り口はあるのか、と云う課題を抱きます。
文化や文明を放棄する事でもなく、又、文明以前に回帰する事でもなく、
生きる課題が食料とエネルギーの確保競争とコンピュターの多元的活用と支配から解放されるには
人の「意識の根源の姿」に「かたかたちわざ」の存在の必然性が課題として浮かびあがります。
「実在の認識」について鈴木大拙博士の見解を上げ、本多利実師の言葉を載せます。
「禅と精神分析」より 鈴木大拙博士の示唆
「禅と精神分析」東京創元社 昭和35年刊 鈴木大拙、E・フロム、R・デマルテイーノ 共著 現代社会科学叢書
「禅仏教に関する講演」鈴木大拙著、小堀宋柏訳
一 東と西 P12
…私は芭蕉とテニスンの二人の詩人を取り上げたが、この両者によって私は真の実在に向かって進む二つの道の根本を示したいと考える。…
二 禅仏教における無意識 P24
…なるほど或る時期の間は科学もしくは概念的が人間研究の全領域をしめることがあろうが、しかし禅の立場はそれから以後に展開するものである。言い換えれば、ありとあらゆる人間活動の全領域における科学の支配に我々が無条件で我々の身を委ねてしまう前に”ちょっと待て”と禅は云う。"もう一度お前自身を見直してみよ、物ごとは本来そのままで、それでいいのだ、ということがわからないのか"と。・・・しかし実在に接する方法はまだほかにもあるのだ。それは科学に先行するかまたは科学の後からやってくる方法である。これを私は禅的な方法と呼ぶ。
1
禅的な方法とはじかに対象そのものの中にはいっていくのである。・・・
以上全文を読んでください。
本多利実師は明治の中頃近代現代弓道の指針を示しました。
その中で
”射は顕幽両途感通して一技を全備す”とあり、矢を放つ以前に中り外れの理を知ると述べております。
感通するのであって貫通するのではないと私は理解しました。それ故そこには自他の乖離はありません。
そこには自他の乖離しない世界、射にはそれが、時々、その部分が顕れると振返れば思い起します。
梅路見鸞師はその具体的動作を「武禅」に示しています。
組織で云われる「無心」:迷い道に誘う呼び水
無心・無我の言葉が多用され「その精神がその藝事の行動に限定されずにその人の行動全般に徳の在る行動と止揚される」理念を組織に据えて、「技即道」と「人を善導する技藝」として、武道は勿論、あらゆるスポーツにや芸事の「道」が付きました。
しかし諸宗教の修行と異なり具体的道法が無いため、「技や型の起こる自然の道理」と「実践する技」の間に乖離が起きていると感じます。競技の勝者や教導者は無心無我をたびたび云われますが、一方で時に、ハラスメントの報道はあとを絶たません。指導層が「通達」を出せば済むと考えている程に深い課題があると思うからです。理念と実践の乖離は、実践される「型形技」と「かたかたちわざの本質」の乖離であり、そこに立ち返って「無心」や「技即道」などの言詮を振り返れねばなりません。
「差別化」は何故生じるのか。
他と共有、同一性と異質性を認識する手段として「型形技」をとらえれば、この一連の事象は私たちの身の回りの総てに起こると云えるます。「かたかたちわざ」など無ければ境界など生ぜず差別化など生まれないのか、ヒトの「意識の必然に差別化が在る」のかとの課題に向き合うことになります。前者には「一体とそうでない」との差別化が存在します。それが政治に利用されればその結果は歴史に明らかですし現代もまた繰返し、極度の情報化社会の動きでもあります。それ故、私たちの内部の課題:後者に向合うことになります。
今、その原初に神を想像する「宗教の型形技」が浮かびます。神を意識させる道具として「神の型を定め」「神主が人と神を結ぶ道具を用いて技を為し」「神事という形を演出する」といえます。それは「不安と安寧の社会生活」の中で人の精神に寄与し、「型形技」に理念を付与して『型自体に「型」を守るという使命を内在させる』と云えます。宗教の世界は此事を如実に示し、幾千年の世代を超えて分派が生まれ継続し、国を作り「主流亜流を云いして」争いを繰り返しこれからも続くのでしょう。
集団や組織が世代を重ねるの連れて、常に、過去や他の類似組織と比較差別の意識をもって自らの「型形技」に理念を付加して維持する努力をします。それは権威と階級を緻密にし固定化します。そこで起こることは競争の欲望を掻き立て差別の心をはぐくむ道具であるとの認識をえます。何故、競争が起こるのか。その事を「かたかたちわざ」に向き合う心象と型と形の事象に在るのでしょう。心象は指導の意識と心の姿勢に在り、事象は競争を助長する仕組みにあります。
「型・形」の生まれた本の「創造的な道理」を解き明かし「正しい技」を自覚を促す指導する姿勢に自立は育みます。一方、その事を省き、外観と結果を比較差別し他力に因る相対的な判断の疑似形態に気づか無い姿が蔓延ることで、「かたかたちわざ」に内在する本来に創造的で自立など霧散する状態に差別は生まれるといえます。学ぶ人に「無心に」と云えば学ぶ者は「無心」を詮索し「言詮」は形骸化し学ぶ人を迷路に誘います。技を究めた偉人や良導の師とは全く内容が異なります。
変化に応じ創造と自立を促す「かたかたちわざ」の認識とは真逆の表れる外面で「差別化」を図り内面の創造性を減衰させる課題が浮かび上がります。前者は心の欲求であり後者は欲望の心であります。心はその間を彷徨います。