梅路見鸞師と本多利實師
梅路見鸞師と本多利實師
竹林坊如成師、本多師、梅路師の射法射技は変わる事なく一つの理論が流れ来て、各師の時代と文化に則して実践され、次の時代を見据えた射の理念とその時代に向けた警鐘がのべられています。視点は三つあります。
一つは「本は一つ」と本多利実師が云い、梅路見鸞師が「微塵の差も無い」と云わしめた”射の正路”にあって、具体的な共通の「言葉」で始めて、思想的な影響を感じたのは竹林派弓術書にある「草菅穀に勝つ」の記述でした。これは「射の病」に載せました。この言葉は高穎師「射学正宗」に出てきます。竹林坊師と高穎師の関係はどのように考えたらよいのでしょうか。ここでは究明しませんが、骨法とその病に係る射の精神性の課題は同じと思えます。
二つ目は、竹林坊師も本多師も梅路師も骨法が唯一無二の射法とはしていないと理解すべきでしょう。骨法を無視することなく骨法など捉われない、もとよりすべてものに型が定まっている分けも無く、無法の射法がある事を示唆されていると学べます。高穎師の記述には見られない処と考えて居ります。三師に共通するところは射の本質に明確に記されている、と学べます。
三つ目は「中」に関する事です。本多師は射ぬ前に中り外れの変化の理を予知するといい、梅路見鸞師は射の成否は引き分けの起こりに於て決し、その正しきか否かを覚知する事を言われ、竹林派には中は未発巳発の中也と云われます。結果では今ある射そのものを知覚することが射の本分と学べる事です。
教本を通じて阿波師と本多師の関係を知り、いくつかの弓術を読み阿波師と梅路師の関係を知りました。池田先生からは梅路師の見鸞、阿波師の見鳳は本多利実師より賜ったとうかがいました。しかし、本多利実師と梅路見鸞師の関係はなかなか書籍には現れて来ませんので吟味する事にしました。
池田先生は梅路老師の紹介状を持って阿波師を訪ね教えを受けたとうかがいました。梅路師と阿波師が兄弟弟子である事は武市義雄師の記述からもうかがえます。東北大學出版会「弓聖 阿波研造」池沢幹彦氏著作からは時代の背景も含め吟味する事が出来ます(阿波師と本多利実師を参照ください)。武禅第三巻「弓道の危機」梅路見鸞師著など戦前の流派が動かす射の世界の本質課題に痛烈な警鐘を鳴らしていますことが、当時の弓界の諸課題の中で検証する事が必要と愚推します。
1) 本多利実師と梅路見鸞師
明治の黎明期、大正の文化の揺籃期、昭和の初めに通じて、維新前後の射の負の課題、名と形式ばかりの射が席巻しその病根が射の世界を変質させ、射とは異なる異質の弓箭の姿が、日置師や竹林坊師が工夫した正しい射を歴史のかなたに追いやって逝く時代にあって、両師がその世界の姿勢には対峙て警鐘をならし実行していく姿に深い関係を感じます。阿波師は本多師に師事していたことは教本や他の書物から知ることができ、阿波師と梅路師も射を通じて深い親交があったことが記述されています。また、阿波師は阿波見鳳の「号」を持っています、この「見鸞」と「見鳳」は本多利実師より戴いたとうかがったことがあります。本多師は東京帝大の師範であり、梅路師も帝大に学んでいたと伺ったことがあります。いくつかの接点は感じますが、しかし、本多師と梅路師の関係を直接示す書物は見つかりません。武禅第三巻昭和十一年6月号に「本多師より皆伝印可免状(注)を戴いた「石原七蔵氏」と思われる「石原範士」が梅路師と武禅道場で対談・射礼をされる記述のある次の投稿があります。
1) 本多利実師と梅路見鸞師
明治の黎明期、大正の文化の揺籃期、昭和の初めに通じて、維新前後の射の負の課題、名と形式ばかりの射が席巻しその病根が射の世界を変質させ、射とは異なる異質の弓箭の姿が、日置師や竹林坊師が工夫した正しい射を歴史のかなたに追いやって逝く時代にあって、両師がその世界の姿勢には対峙て警鐘をならし実行していく姿に深い関係を感じます。阿波師は本多師に師事していたことは教本や他の書物から知ることができ、阿波師と梅路師も射を通じて深い親交があったことが記述されています。また、阿波師は阿波見鳳の「号」を持っています、この「見鸞」と「見鳳」は本多利実師より戴いたとうかがったことがあります。本多師は東京帝大の師範であり、梅路師も帝大に学んでいたと伺ったことがあります。いくつかの接点は感じますが、しかし、本多師と梅路師の関係を直接示す書物は見つかりません。武禅第三巻昭和十一年6月号に「本多師より皆伝印可免状(注)を戴いた「石原七蔵氏」と思われる「石原範士」が梅路師と武禅道場で対談・射礼をされる記述のある次の投稿があります。
武禅第三巻昭和十一年6月号
「虎洞に参じて 田邊 流雲」 ヨリ抜粋します。
全文は後で記載します。
「…十日には早朝より九州の石原範士がが門下の三宅教士、五代錬士
を従えて来三山せられた。老師と石原範士とは二人きりで正午過ぎま
で対談せられた。午後は武禅道場の稽古日なので樫野南陽先生はじめ
四五名のの門下も来場せられ十数名の多数となったが、場内は静粛
そのもので一言の無駄口をきくものもない。
老師が師範臺に着かれて門下生一同の挨拶を受けられた後、石原
範士、三宅教士の射礼あり、終って一同交交習射、夕刻まで引く。石原
範士はその夜虎洞に一泊せられた。翌朝再び道場に入られ、真法の開示
あったことを後で老師より承った。私は惜しくもその席に列席するを得なか
ったが、昼食の際、石原範士は『自分はもう七十歳にならんとして居り、
是まで随分苦労もして来たが、死ぬ迄に真道を求め、もう一と修行を積み
度いと常に心掛けている、今度も随分と下げ難い頭であるが、正しい道の
前には止むを得ず自然と頭を下げなくちゃならん』と云われた。石原先生
は本多流の承継者で、現範士中の第一人者と称しても何人も異論はある
まい。今回の演武祭に於いても実に立派な射を出して居られる。その先生
が見栄も誇も一切の事情もかなぐり捨てて真道を求めて真修せんとせらる
る、正に凡を越えたる修行底の人にあらざればよく為し得ざる所で、流石
がに名大家なる哉と唯々讃歎せしめられた。…」
石原七蔵が70歳とするとおおよそ梅路師は50歳、阿波師は56歳
ちなみに、教本執筆範士はおおよそ
教本一巻二巻執筆範士 40歳から55歳
教本三巻執筆範士 40歳から60歳
教本四巻執筆範士 30歳から40歳
石原氏が本多師より皆伝印可免許を受けた明治44年の時
本多師75歳、石原氏45歳、梅路師25歳、阿波師31歳
梅路師が20歳前後から本多師没(大正6年10月13日)までに本多師に師事
される 期間は推定10年程あります。
梅路師が東京大学の英文科に居られた話を伺ったこともあり
本多師が東京帝国大學運動会弓術師範(明治35年)、明治41年東京帝国
大学弓術部編「日置流竹林派弓術書」の刊行などから、本多師と梅路師
は東京帝国大学弓術の関係も検討の余地があると思います。
以上の事から、「阿波師と梅路師の親交」「武禅に見る記述」と「本多師と
梅路師の両師の理念、哲学、 実践活動内容」等から本多師と梅路師の
両師に深い関係性を感じます。
(2)梅路見鸞師と阿波見鳳師
(3)梅路見鸞師と池田正一郎先生
池田先生は「弓道を学ぶには」にて
「弓道を習得するには、先ず一切の心の囚われを離れて小児の様な
純真さに返って「射」を行う事、肝要である。かくすれば自然と「弓を引
き矢を放つ」と云う射その事についてよく納得できるようになり、自然
と弓道の本質を体得するに至るものである。このように心を純真にす
るには
一 心の底に自問自答して真実の心の叫びを聞くこと
一 射法理論と肉体の合理的使用に忠実に徹して、向
上の一路を無限にたどろうと欲すること
であろう。この二点の中の一つを己のものとして追及していけば、必ず
純真となる。純となるか不純なるかこれ弓の道を無限に追及しようと
心がけるには、この純真以外にはない。…(以下略)」
弓を手にすれば、必ず射法射技の理論と実践の仕方を学び、理念等も目にします。
常に心に純真さを問えばよい事でしょう。
他人と比べたり、言葉に捉われたり、名誉や権威に自己を預け他力にすがるなど
形に捉われていないかを自己チェックする事になります。
流派流派などといい、組織の中で免許で内外を比較差別して自己認識しては
争いの本になること必然です。現代のスポーツ組織の課題にも通じます。
この「純真」に向き合う事で、初めて、初心に帰り、実践学ぶ時の自己を見出せると
思います。ましてや教導する時にこれを失えば射は成り立ちません。