弓は身に随い、身は業に従うところ・・・かた かたち わざ:はじめに
弓は身に随い、身は業に従うところ・・・かた かたち わざ:はじめに
私たちは、何故、型や形を考え、想像するのでしょうか。
植物や動物、大地や空気、水は、何故、多様な姿・形をしているのでしょうか。
私が目に見、心に意識する世界の規則性や繰返し起こる状態は自然の本性なのでしょうか。
規則性や再現性を認識するのは人の身体機能のからあらわれる必然的な精神症状なのでしょうか。
人体が細胞からなり、細胞がタンパク質等の分子からなり分子が原子からなり、原子が素粒子からなり、物質界が反粒子の存在を模索するなど、全てに法則などの型を見出し、形や変化の現象を生み出す電磁や重力などのエネルギーの力学的な゜ロセス(技)に法則を明らかにして、自己(ヒト)と、周りの世界(環境)の”認識、あるいは、外界と接する方法”として「型・形・変化のプロセス(技)」を工夫している様に見えます。
「かたかたちわざ」と射の「型」
内にある道具:骨に意識を向けて思う事
「骨は人の持つ道具」として位置付け、筋膜、筋、筋肉、皮膚、体液、呼気と関節で、弓を手にして矢を射る「動態の骨格を組む創意工夫」には、身体に一定の重力が静態として常にかかり、「連続的に引き絞る弓力の位置と大きさのと接触点の変化」と「呼吸の変化、心気の動きなど」の動的状態が、射手と弓箭と大地の力学的系の動作状態と現れる姿に想定されます。会の状態は静態の中のベクトルの動態が身体の一点でバランスしており、離れは其の一点起こればその点は微動だにしません。このような道具を使う動作はみません。それによって弓箭を扱う意図が達成されればそこに「型」が意識すると思います。梅路見鸞師は「武禅」で大正の末頃から「射に起こる力の現象」を、単なる物理的解釈で終わるのでは無く、心理物理学という見地から専門学者に研究を指示している事を述べています。バックミンスター・フラーがテンセグリテー理論を提唱した時期に重なり、「かたかたちわざ」を考える範囲を広げています。