「矢を射放つ前に中り外れの理を知る」こそ行動する現在の中に全てが包括されます
比較して比べる世界を認識、自覚してそれを含んだ自他一体の世界の認識
「型形技」の世界から「型形技」の無い世界の「かたかたちわざ」の事象
布に型紙を通して糊を置いた瞬間に全て覚知する技
そこにある「わざ」は心に依拠してこれを離れ
見る人をして唯一無二の「かたかたちわざ」の心象に顕す
「矢を射放つ前に中り外れの理を知る」こそ行動する現在の中に全てが包括されます
比較して比べる世界を認識、自覚してそれを含んだ自他一体の世界の認識
「型形技」の世界から「型形技」の無い世界の「かたかたちわざ」の事象
布に型紙を通して糊を置いた瞬間に全て覚知する技
そこにある「わざ」は心に依拠してこれを離れ
見る人をして唯一無二の「かたかたちわざ」の心象に顕す
《 予知 》
型・形・技(プロセス)は変化を予知する道具と言えます。
花は咲き種を生む、太陽を回る地球の天体の仕組みを知り、繰返し起こる四季の変化を感じて、事物に起こりくる変化を予感します。
しかし、太陽系は銀河の淵に在って、銀河とともに宇宙を移動して、始点を考えれば同じところには無く、同じ状況とも認識できません。 むしろ自然は変化の中にあることを学んで"学んだ自然の知識・法則の中から自然を見て変化を予知”します。
生命体もまた同じように変化を続け、時の進行にそって繰返し体内の物質を入替える事が明らかになっています。常に生体は変化しているのであれば、変化の中に居るのは人の本性であることを科学知識として学びます。科学的な意識を持つ以前から先人も変化する自身と環境で生存するにはそとの世界動きを感知して来るべき変化を受け入れる体態勢を用意する能力が生体にあるのでしょう。
身体を用いて「技」を為す瞬間に、自身もとどまることなく変化している事を覚知し、鍛練された体内の技を扱う筋道にそって無意識の中の知覚が意識を変化:呼び覚ます中で変化を予知する、相対的な予知を意識します。
科学的な分析のもとに比較判断する意識の中では我と道具・環境が対比的であり、予知する対象が 関係する全体の環境の範囲を定めて事物の本質を明らかにします。社会的に見れば、その事物に接する自己の価値観を軸に関係性を明らかにして範囲を限定して、予知する期間と範囲に区切りを設けて「型・形の法則を据限界性を自覚せねばなりません、その作業は細分化と同時に拡大化によって普遍性を思考する方向で再構築されます。
細分化も拡大化の際にある事象の変化を帰無仮説として再構築され、科学的合理性と社会的に合目的もしくは功利的な意識で、際限なく繰り返される状況は知的好奇心は満たされるが、事実が醸す真実には到達できない気がします。技の修得の世界はこれとは異なると思います。
歴史に陶冶され伝統の型形技は、技を為すその瞬間に、科学的に測定不可能な、自己と道具・素材と使用環境の変化の現実と来るべき結果の全体を、無意識にして直接、予知・予感・覚知するのでしょう。それは先人の偉業だけでなく、日々生活にみる予感、反射行動等、人の持つ能力を無限の可能性を暗示しています。道具として「型・形」と考える事で予知の正確性、ないしは絶対性再現性の確実さという事実を意識せねば、「型形技」の真の存在を見失う気がします。
先人の書物に”「筆・紙に尽くし難し」と説明不能、実践で覚知しなさい”とは日々の生活の技にもいえる事、つまり人々の意識無意識の世界は皆異なる事を示唆し、また協同も在ることを示唆しているのでしょう。そこに先哲が言われる、人の前科学的な認識があり、科学的な世界観から入る入り口を見る可能性が、当然の機の覚知とともに今があるのでしょう。
科学的な意識を持つ時代にあっては、型を”変化の予知”に活かすには、先ずは型が工夫された「理を学びつつ、意識を変えてその理に随い実践を行い心のありかを照らし、先ずは自分の価値観を自覚せねば、予知の正確性において自得する事が適いません。それ故二律的な比較差別の意識の「利」を優先する欲望と、正しく技を活かそうとする欲求のハザマに揺れる心を実践で問わねば「心の所在」は不明です。先哲は学ばない事を無明と云われます。