射法八節の動作から、この二つの様子を見る事が出来ます。
「維新前、太平が大よそ2,3百年続き、自然と弓術は名と形だけが残って明治に伝わって来た」と本多師は記述している事からもわかります。「恰好ばかり真似して、「射法の道理」を自ら学び、その修練と自得をもって実践して伝えていない」と警鐘されている事をすでに取り上げました。
射の姿にはいろいろありますが、八節の射法を知らず、我流で楽しまれる方の姿・形を言っているのではありません。
八節の射法を知って
(1)八節の射法・型が出来た道理「骨法」を学び、実践する正しい姿と、
(2)「骨法」の道理を究明することなく表面の射形ばかりなぞり稽古する姿
の二つがある事を言っております。
では道理とは何なのでしょうか。射法と云う「法律」が有り、その法は誰でもいつの時代にも認識できる共通の「理・ことわり」が在り、それは「自然の理」に依拠すると云われるのが「射法」という事です。教本にも「自然の理」は出てきます。「力」の現象で見れば、弓が常に縮もうとしているのは「自然の理」ですから、弓を扱う射手は射の始から終り迄、途切れることなく、連続して押し開き続ける動作する事が合理的であって無駄が無く、自然の姿もまた力学的に安定し連続して変化す事が”道理”と理解すれば、それが射法の規矩:”伸びて縮まざる事”が射の規矩であり、姿の一つが縦横に伸びる十文字と規矩となっています。そこについて射を学べば普通の強さの弓を20数㎏から30㎏程度の弓を射こなす筋道の門を叩き、表面の形を真似て作る動作は”極めて弱い弓”を用いる八節の動作に現れる射の病に入り易いと学べます。
「射法八節」は「道理に基ずいて矢を射る動作をして現れた外見・姿」を記述したもので、「何故その姿になるか」述べられた弓術書はあまり述べられていません。多くは外見に捉われた説明です。それは「何故か」と愚推すれば、竹林坊如正師と高穎師によって400年も前に明確にして詳細に述べられているからと思います。
「骨は人の持つ道具」として位置付け「筋膜、筋、筋肉、皮膚、体液、呼気と関節」で動態の骨格を軸に矢を射る動作を考えます。関与する力は、一定の重力・連続的に引き分けられた弓力の変化・呼吸の変化、心気の動きなどの身体の動的な力の変化が、射の動作に想定されます。骨法の定義から「骨力の直線性」を想起するのに、「皮膚や筋肉、体液、呼気に包まれた骨格が直になるようにする」には「人の心気が呼気と一体」になってその「直」の真正を限りなく極限にする状態は「筆紙に尽くし難し」と竹林坊師は述べています。つまり、型形技は必須の要件ではありますがその先に更に、それを超えた世界を見据える必要があると理解できます。
射の姿 二つの姿 以上