武禅 第二巻 説苑 「向上の進路と内省」
武禅 第二巻 説苑 「向上の進路と内省」
弓道の修行の極所は弓即道、射即人生の顕現照用、即ち理事無碍にして有無を越えたる実相諦観である。今少し判り易く云えば、人間天付の使命を天地当然の指示の如く存分に行 盡し去ることである。
弓道の修業が如上に向かって進む最高便法たることと、各種の名題と、弓に矢を番えて発し、巧拙可非を論ずる射とが存するだけでは、其目的とする極所の実現は不可能である。これが実現に当っては、既に弓道の目的、師格等に於て論ぜし如く、なるべき道をなる様に進むことと、其極所を往来して学人の進路覚知の正邪を指示し活範を垂れる正師とが無くてはならぬのである。何故であるかと云うと、正道を修行し向上(向上とは禅の専用語即ち絶対熟語にして必ず仏になる道を迷いなく正進することのみ用いられる語で、一般に字義の浅解によって使用するに非ず、即ち上とは無常の境のことなり。)するに随って、必然的に具現せらるる幾多の実証がある (この実証の一つでさえ、全般の人が主義とし目的として、独覚的に懸命努力しても容易に得られざるもののみで、これが不識の間に具現せられて行く) 而も其れが真生命の源泉から其儘具現しているものと、同一の源泉に発して居ても相対的にしか具現しないものとの一々を洞察して、その深浅成否、活用の是非正邪等を明々断に直視証明し実相の上に学人を悟得にせしめねば其正用が真で無いからである。爰に至りて始めて弓道が無為の大道であり、射が人生実相其儘の姿であると云い得ることになるのである。故に此弓道を 修行して向上の一路を辿るに当って、前述の必然的具現の実証即ち道を識 らず顕現して、而も悟得して行く其道程が輙ち射の進路である。此進路中に顕現せられて行く如前の実証を簡単に述べることにする。
一、 度 …… 精神根底の不動不壤たる大決定
一、 断 …… 理事に即して迷着無き決行
一、 運行 … 気縛の停息無き智情の正用
一、 発力 … 全身固凝無き力體の自然活用(自然の威厳)
一、 耐久 … 終始一貫不変の根気持続
一、 捨身 … 私心を捨てて明道の実践
一、 和合 … 自他一如の共通
一、 見性 … 本来面目の覚証
以上の如き明確なる行程の示針さえ教ゆる人にも不明確であり、習う者にも
纏らない、唯日常口にする處は、道々と云い、精神修養と云うのみであり、偶遇
文字ある人が説く所と雖も、統一、練心、不動、厳正、和順等の低所を、そう思え
と云う程度か、或は固信ぜしめる程度の極低級な言句を標準にして教えている
に外ならぬ。是等の如き行方では、何程主義精神目的と固信し努力しても、相対
見を一歩超ゆることを得ないのである。
真の修行は心に思うものでも無く、目的とするものでも無く、心も身も不識の間に
そうなるもので、自然に道そのものが顕現せしめらるることになるのである。真の
弓道による修業は、斯くの如くなるが故に、射人たる者各自、自己の心中を深く
省みて、果たして自己は度に於ての決定を得ているか修行上に於いて真に私心
を捨てて道に則したる行道を辿っているか、人に悪く云われたくない良く見せたい、
自分には行詰って居ないか、自分は自分の非をよく知りながら立場とか誇りとかの
ために自分が捨てられない卑怯さを持ってはいぬかと云った様に、又は断即ち
理事にに即して迷着無き真の一念一動が続けられているかと云うが如く、自己の
深心の奥底に偽無き自己を求めてこれを慥め、更に日常低、即ち家庭に於ての
全般に、或は行務に於て、自他に関して、真の心の儘を以て那辺まで道が具現
されているかを確めんか命ぜ、明然として正邪を知覚し、進んで幾年の修業の
如何を知覚せば現下弓道の価値を覚り真実道を修するに至るであろう。更に
一言を添えるー自己を捨てる事の易さが判らねば修行は益のないことであると。
(完)